『猿の惑星』といえば、わたしのような40代後半のおっさんとしては、当然オリジナルのCharlton Heston氏が主演した、ラストに自由の女神が現れ、なんてこった、ここは地球だったのか! で終わるあちらを思い出す人の方が多いだろう。もしくは、フランス人のPierre Boulle氏が執筆した原作小説の方かもしれない。わたしはもちろん、オリジナルの映画版シリーズを全て観ているし(もちろんテレビで。さすがに劇場に観に行った年代じゃあない)、原作小説も読んだ。原作小説は、宇宙を旅する語り手が、たまたま宇宙で拾った日記(?)を読んで、うっそだろこんなことありえないよ、なあ? と実はその語り部も猿だったというオチだったと思うが、映画も原作小説も大変面白かったと記憶している。
 その後、この『猿の惑星』というIPは、かのTim Burton監督によって一度リメイクされ、物語的にはオリジナルの映画第1作をアレンジしたものだったが、はっきり言ってあまり面白くはなかった。それが2001年のことである。そしてさらに10年の時が流れ、再び『猿の惑星』は新たな映画となって登場した。それが、2011年に公開された『RISE OF THE PLANET OF THE APES』である。
 この新たなシリーズの第1作は、しいて言うと、オリジナル映画シリーズの第3作目の『新・猿の惑星』に物語的には近くて、地球がいかにして猿の惑星となってしまったか、の(時間軸的に)一番最初のきっかけを描いたものだ。なお、オリジナル映画シリーズについて書き始めると超長くなるので、ごく簡単にメモしておくが、この『新』は、未来(の猿の惑星となった地球)からタイムスリップしてきた猿が、現代地球に現れるという話だったのに対し、『RISE~』の物語の流れは完全に独特で、『RISE~』においては、アルツハイマー病のために開発していた新薬によって、猿が知能を得てしまうという物語で、実に現代的かつあり得そう、と思わせる見事な脚本であった(いや、まあ、あり得ないけど)。わたしはこの『RISE~』という作品は大変な傑作だと思っている。
 しかし、続くシリーズ第2弾『DAWN OF THE PLANET OF THE APES』は、若干無茶? な設定で、なんと人類は「猿インフルエンザ」なる謎の病気が蔓延して大半が死に絶えてしまい、残った人類と猿たちの戦いが描かれることになった。そこでは、主人公たる知能の高い猿「シーザー」と、人間を深く憎むが故に、人間との宥和を模索するシーザーを許せない猿の「コバ」の対立なんかもあって、人間VS猿VS猿というように若干対立関係が複雑になってしまって、憎しみが憎しみを生んでいくという悲しい連鎖が結論のないままに終わってしまった印象を受けた。
 ただし、この『RISE~』も『DAWN~』も、とにかくすごいのが「猿の表情」で、フルCGなわけだが、もう本当に本物にしか見えないクオリティが凄まじく、とにかく一見の価値のある凄い映画だったわけである。
 というわけで、昨日の金曜から、シリーズ第3弾となる最新作『WAR FOR THE PLANET OF THE APES』が公開になったので、わたしも今日、さっそく観てきた。結論から言うと、やっぱり若干微妙な点はある、けれど、きっちり物語は向かうべき地点へ向かい、そしてわたしとしては一番気になっていた「憎しみの連鎖を断ち切ることが出来るのか」という点にも明確な回答が示されており、わたしとしては、やっぱり面白かった、というのが結論である。観に行ってよかったわ。これは凄い映画だと思う。なお、この作品単独では全く意味不明です。前2作を観ていることが、本作を観る絶対条件であることは断言してもいいと思う。
 以下、ネタバレ全開になると思うので気になる方は読まないでください。

 なお、新シリーズは、それぞれ妙な日本語タイトルがついている。
 第1作『RISE~』→猿の惑星 創世記(ジェネシス)。これはまあ許せる。75点。
 第2作『DAWN~』→猿の惑星 新世紀(ライジング)。微妙……。30点。
 第3作『WAR~』→猿の惑星 聖戦記(グレート・ウォー)。これはナイな。作中で、これは聖戦だ、というセリフがあるにはあったが、グレート、は明らかに変だよ。辞書的には、Great Warは第1次大戦のことらしいすね。この日本語タイトルは0点だと思う。
 ま、そんなことはともかく、『WAR~』である。
 わたしは、前作までの流れから言うと、前作において、主人公猿シーザーは「猿は猿を殺さない」という猿の掟を破ってしまい、さらには人間に対する憎しみの連鎖もある中で、いかにして落とし前をつけるのか、に最大のポイントがあるのだろう、と思って劇場へ向かったのである。確かに、喧嘩を売ってきたのは人間だし、仲間の猿のコバだ。だから、シーザーは悪くない、という見方はあまりに浅すぎるだろう。しかし、このままでは永遠に殺し合いが続いてしまうし、リーダーとして、猿の掟を破ったことに対して何らかの落とし前をつける必要があるはずだ、と思ったのである。
 結論から言うと、本作では、この点に対し、見事に回答を用意していたと言えると思う。
 シーザーは、やむをえなかったとはいえ、前作でコバを殺してしまったことに、本作でもずっと心を痛めている。あまつさえ、後半では一番の理解者であるオランウータンのモーリスにも、あんたはコバと同じじゃないかとなじられてしまう。それは、冒頭で、せっかく生かして解放してやった人間に裏切られて、あまつさえ愛する妻と息子を「大佐」に殺されて、恨みの念にとらわれていたためでもあるのだが、それでも、シーザーは、葛藤する。これでいいのかと。
 その悩みぶりがもう完全に猿ではなく、人間そのものなわけで、そこが本作の一番の見どころなわけだが、その演技、そしてそのCGがとにかく本物にしか見えず、まったく違和感がないのがとにかく凄いのだ。そしてなんといっても、シーザーの「赦し」が心に刺さるのである! シーザーは、人間が始めた戦争を、赦しで解決しようとするのだ。
 我々現生人類がどうしてもいまだに「憎しみの連鎖を断ち切る」ことができずにいるのは、世界中で起きている戦争やテロを観れば誰も反論できないだろう。自分は大丈夫なんて思っている人っているのかな? 目の前で、自分の大切な人が殺されて、その相手を赦せるわけないよね。そりゃあ、時間をかければ、なんとか赦せる境地に至ることが出来るかもしれない。でも、どうしたって時間が必要なのは明らかだろう。しかしシーザーは、人間以上の理性?を総動員して赦すのである。わたしはこの赦しに、非常に驚いたし、結構グッと来てしまった。もう、はっきり言って感動させようとする制作側の意図はあからさまで、音楽もそれっぽくて、ひねくれもののわたしなら、ケッ!とか言ってもおかしくないはずなのに、グッと来てしまったわけですよ。それはきっと、やっぱり人間にはまだできないことだと感じたからなのだろうと思う。
 おまけに、本作では、前作から出てきた、若干狂っている「大佐」が、なぜ狂っているのか、についてもきとんと説明されていて、わたしはとても驚いた。なんと、「猿インフルエンザ」の副作用?で、人類が発話能力を失いつつあるらしく(おまけに知性も失いつつある?)、このままでは、体力的に猿に勝てない人類は、完全に家畜に成り下がってしまう、ゆえに、保菌者の人間は殺すしかないし、猿も生かしては置けない、ということだったらしい。そう、大佐には大佐の明確な正義があったのだ。何だ、そういうことだったんだ!? と激しくわたしはびっくりした。それを知っていれば、わたしは結構大佐の行動は理解できるというか許せてしまうような気すらした。シーザーは、そういった大佐の事情も考慮して、赦すのである。しつこいけれど、これは凄いことだとわたしは思う。
 ただ、まあ、映画としては、シーザーが赦しても人間サイドが赦すわけないじゃん、このまま戦争が続くのか? と思うところで、巨大な雪崩が発生し、人類軍全滅、となって終わるのだが、この結末は、まあ、若干アレだったかもしれないすね。そしてその後、猿たちが新天地に到着して物語は終わるわけだが……わたしが本作で、実はどうも良く分からないのが、今回出てくる人間の少女についてだ。たしかに、非常に可愛らしく、人間と猿の将来においては、きっと重要なカギになるのだろう、という想像はできるものの、実際のところ、本作の中では、若干お飾り的であったような気もする。そりゃあ、たしかに、ゴリラのルカが、そっと少女にお花を挿してあげるシーンなんかは、実に美しい。そしてラストで猿たちと無邪気に戯れる少女の姿は、良かったね、という安堵も感じる。けどなぁ……やっぱりこれもあざといというか、制作側のしたり顔が想像できちゃうんだよなあ……シーザーには大感動したわたしだが、この少女に関しては若干辛目の観方しかできなかったのはなぜなんだろう。いまだに謎です、はい。
 
 というわけで、なんだかまとまりがないので、監督についてと、感動的な猿たちを演じた役者についてメモして終わろう。まず、監督はMatt Reeves氏が前作『DAWN~』に引き続き続投。この監督は、わたしの中では傑作認定されている『CLOVER FIELD』と『LET ME IN』の監督なのだが、かのJJ Abrams氏と学生時代からの友達ということでも有名ですな。本作では、演出面でとりわけここがすごい、というポイントはあまりないけれど、とにかくCGの出来、端的に言えば猿たちが物凄いクオリティであることは誰しも感じるだろう。すべて、役者に演技をさせて、モーションキャプチャーで猿に変身させているわけで、オリジナル映画シリーズのような着ぐるみ感は一切なし。完全に生きているようにしか見えないすさまじい質感はやっぱりお見事だ。
 そしてその迫真のモーションキャプチャーでの演技を披露しているのが、もうそこらじゅうのモーションキャプチャーキャラを演じまくっていることでおなじみの、Andy Serkis氏だ。Serkis氏が演じたモーションキャプチャーキャラを列挙すると、まず、その名を一躍有名にしたのが『The Lord of the Ring』のゴラムだ。あの、指輪の元の持ち主で呪いにかけられた素っ裸の小さいおっさんですな。そして同じくPeter Jackson監督の『KING KONG』でも、コングを演じているし、ハリウッド版ゴジラもこの方、そして最近では、新生『STRA WARS』の恐らくはラスボスと思われる「最高指導者スノーク」もこの方が演じているわけで、もはや素顔の方が全然お馴染みではないだろう。とにかく、その彼が主人公猿シーザーを演じているわけだが、怒り、苦悩し、葛藤するその表情は、猿なのにまったく違和感がなく、さすがのSerkisクオリティだったとわたしは絶賛したい。
 あともう一人、凄いと思ったのが、シーザーの理解者、オランウータンのモーリスを演じたKarin Konovalさんだ。さっき調べて女性であることを知って驚きです。主にTVで活躍されている女優さんのようですな。このモーリスは、シリーズ3作すべてに登場してきたけれど、物静かで知性があふれているキャラで、実にその演技ぶりは見事だと思う。やっぱり、猿とはいえ重要なのは「目」なのかな……とにかく素晴らしい演技だったと思う。
 最後。わたしがどうもわからなかった、人間の少女を演じたのがAmiah Millerちゃん13歳。2004年生まれだそうです。あ、すげえ、TwitterとかFacebookとか盛んにやってるみたいだな。綺麗な顔してるよね……。すくすくと育っておくれ……。


 というわけで、もうホントにまとまりがなくなってきたので強引に結論。
 新生『猿の惑星』シリーズ第3作『WAR FOR THE PLANET OF THE APES』を観てきたのだが、本物にしか見えない猿たちの映像的な凄さはもう間違いない。そして、わたしは今回、けじめをつけた主人公猿シーザーの、「赦し」にかなりグッと来た。人類には、いつか憎しみの連鎖を断ち切ることが出来る日が訪れるのだろうか? わたしはそんなことを考えながらこの映画を観ていました。まあ、少なくともわたしが生きているうちに、世界から戦争がなくなることはないだろうし、下手したら生きているうちに身近で戦争が起きるかもしれないし、そういう意味では人類はまだまだ、進化の途中なんですかねえ……それとも進化の停滞にあって、これ以上の進化は望めないかもしれないなあ……だとすると、いつか、新たな地球の支配者となる「種」が現れてもおかしくないかもなあ……などと想像しつつ、気分が重くなりましたとさ。以上。

↓ わたしとしては、オリジナル映画シリーズでは第4弾のこれがやけに好きです。シーザーが、自分の名前を本で(辞書?)指さすあのシーンが忘れられない。