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 全米第9位の大都市DETROITChicagoのほぼ真東に400km弱ほどの距離にあり、カナダとの国境に面したこの街は、これまで数々の映画の舞台となっている。わたしがDETROITと聞いて真っ先に思い出すのは、自動車の街であり、あるいは『ROBOCOP』の舞台の街といった印象である。しかし近年では『ROBOCOP』でも描かれたように犯罪都市としての汚名も有名で、まあ、実際のところ治安のヤバい街としてもおなじみになってしまっている。
 わたしが今日観てきた映画『DETROIT』は、まさしく都市DETROITが、いかにして犯罪都市になってしまったのか、のある意味きっかけとなった事件をドキュメンタリータッチで描いた作品で、わたしは観終わって、恐ろしく後味の悪い、なんというか……もうこりゃダメだ、というような軽い絶望さえ感じるような作品で、もう、なんか深い悲しみにとらわれてしまったのである。この映画は……キツイぞ……。
 というわけで、以下ネタバレを気にせず書くと思うので、気にする人は退場してください。

 本作が描くのは、1967年7月にDETROITで起きた暴動と、そのさなかで起きた「アルジェ・モーテル事件」の模様だ。なお、最初に書いておくが、本作は事件関係者の証言をもとに描かれた創作であるので、事件の本当の姿が描かれているかどうかは保証の限りではなく、その点はある程度割り引いて考える必要がある。しかし……それにしてもひでえ。ひどすぎる。
 本作は、まず冒頭で、変なアニメーション?でDETROITという街の背景が描かれる。それによると、南北戦争の終結後(日本的に言うとだいたい明治維新の頃、と同時代)、職を求めて多くの黒人が南部から北部へ向かい、19世紀末から20世紀初頭に興った自動車産業の街として、DETROITにも数多くの黒人が定住した。しかし、第2次大戦が終わり、世が安定すると、白人たちはある程度の財を成し、郊外の一軒家に次々に引っ越していった。その結果、都市部には低所得者層の黒人たちだけが残り、黒人コミュニティが発達拡張していったのだという。そして60年代後半のベトナム戦争期はさらに黒人退役軍人たちも集まっていったようで、大勢の黒人VS一握りの白人という構造が、差別という憎しみを下敷きとしてどんどんと緊張関係を醸成していったらしい。その緊張がとうとう爆発したのが、1967年7月のDETROIT暴動というものだそうだ。ちなみに、その後70年代に入ると今度はわが日本車の進出でDETROITという街はさらに失業者であふれることになる。
 なるほど、要するに19世紀の帝国主義、そもそものアメリカという国の建国からして「移住してきた白人」と「白人に使役される黒人奴隷」がアメリカという国を作ったわけで、そこからしてもう、将来的な火種は抱えていたわけだ。こう考えると、100年後のヨーロッパも極めてヤバいような気がしますな。現代ではそりゃあもちろん「奴隷」は存在していないかもしれないけど、奴隷的に仕事に就く貧困層の黒人は世界のそこら中にいるわけで、不均衡・差別がなくなったとは到底思えないのだから。おまけに現代は、奴隷的立場にいるのは黒人だけじゃないしね。
 で。本作のメインは「アルジェ・モーテル事件」の方である。街が暴動で荒らされ、商店は略奪の傷跡も生々しく、無秩序状態だった数日間のうちに起きた事件だ。街には州兵も動員され、厳戒態勢にある中、アルジェ・モーテルから銃声が鳴り、州兵や警察は、狙撃者がいるとあわててモーテルを包囲、中にいた黒人の少年たちや白人の少女を容疑者として拘束、暴力的に尋問をしながら、3人の黒人少年を無慈悲に射殺する。本作はそのいきさつと、その後の裁判の模様を生々しく描いている。
 わたしが思ったことは、大きく分けて3つある。
 1)イカレた警官たち:もう狂ってるとしか思えない。詳しくは後述。
 2)暴動の最中だってのにバカみたいに遊び歩いている少年少女たち:なんでこんな危険な状況なのに遊びまわってるわけ? 自ら危険に近づくその神経がもうありえない。ある意味自業自得と断罪するのは酷かもしれないが、明らかに避けられた悲劇、だと思う。
 3)差別バリバリな、正気じゃない裁判と判決:もう話にならん。これがアメリカなのか?
 これらはもう、我々日本人には全く理解ができないものだろうと思う。
 そして本作は、ある種の群像劇的な構成をとっていて、明確な主人公がいない、ともいえる。描かれるのは、以下の3者だ。
 a)イカレた警官3人組:とりわけ一人はもう完全に頭がおかしく、暴動鎮圧に出動しているときに、一人の黒人少年を背中から発砲し殺害する。すぐに警察殺人課に呼び出され、お前を殺人で起訴するから大人しくしとけ、と説教を食らうも、それだけで放免。その後は普通に警邏に出る。コイツをさっさと拘束していれば、後の「アルジェ・モーテル事件」は発生していなかったかもしれない。ただ、わたしがコイツを頭がおかしいと思うのは、21世紀の平和な日本人だからかもしれず、別にラリッているわけでもないし、コイツはコイツで、間違ったことをしているという自覚は全くない。その心底にあるのは明確な差別意識で、そういう意味ではアメリカという国が産んだ化け物、と言ってもいいのかもしれない。コイツはアルジェ・モーテルでも2人を殺し、相棒のボンクラ野郎も1人殺す。本当に許せない悪党どもなのに、裁判で無罪放免を勝ち取る。50年後の現在も罪に問われていない。信じられん。
 b)歌手を目指す黒人青年とその親友:彼らは実際のところ何も悪いことはしていない。待望のデビューステージを迎え、歌う10秒前に、暴動が発生したから今日は中止、と目の前でチャンスを奪われた気の毒な若者だ。彼らはすぐに帰る気になれず、アルジェ・モーテルでリハをしようと立ち寄ってしまい、運命が変わってしまう。彼らがさっさと帰っていれば……そしてアルジェ・モーテルでバカみたいに遊びまくっているバカガキどもさえいなければ……彼らは完全に無関係な被害者なのに(モーテルにいた、黒人のとんでもないバカガキがおもちゃの拳銃を撃ったために包囲され、容疑者にされた)、不条理な暴力にさらされ、親友は殺されてしまった。理由はたった一つ。彼らが黒人であったからだ。そんなバカな……! わたしは本作を観ていて、何度も「そんなバカな……」とつぶやかざるを得なかった。ひどすぎる。
 c)昼は工場で働き夜は夜警をしている真面目な黒人青年:彼は、白人に喧嘩を売ってもどうにもならんと達観していて、ある意味ヘイヘイと従う姿勢を見せているために、白人から目を付けられることはなく、模範的?な青年ではあるのだが……アルジェ・モーテル事件のすべてを目撃するが、そのために、後に不当に、一時的に逮捕拘禁される(すぐ釈放されるけど)。そして裁判の行方を見守り、そのあまりの判決にあわてて裁判所を出て嘔吐する。判決は警官たちは無罪という文字通り吐き気を催すものだったわけで、全くもってわたしも吐き気がした。これがアメリカなんだなと、ぞっとしたね。
 とまあ、こんな感じの映画なので、どうもこの映画は何を描きたかったのか、その意図がわたしには良くわからなかった。この映画によって、再び裁判が開かれるなんてことはないし、わたしがこの映画を観て得た教訓はただ一つ、アメリカは恐ろしい国だ、というものだけだった。実に後味は悪く、ホントにもう、ひでえ、という感想しか抱き得ないのである。
 しかし、だ。ひとつ、重要な問いがわたしには残ってしまうのもまた事実である。それは、このイカレた時代のイカレた現場に、わたし自身が立ち会っていたら、果たして今、ただの観客として事件を観て思っているような、正しいと思える行動をとれただろうか??ということだ。
 まず、自信を持って言えることは、この暴動に参加することもなく、モーテルに遊びに行くこともなかったという事が一つ。これは黒人であったとしても絶対に危険には近づかなかっただろう。おそらくわたしが取りえた最も近い道は、c)の夜警の青年のように不満はあっても言動に乗せず、タダ傍観していただけ、そして判決を知って嘔吐するというものだったと思う。そういう意味では、このc)の夜警の青年は観客のアバターであるとも見なせるように思う。
 そして自信はないけど、たぶん、というレベルで言えることは、a)のイカレた警官のうちの一人だったとしても、彼らを止める側にいたはずだ、と信じたい。どう考えても常軌を逸しているし、そんな正気を失うような男じゃあない、と自分を信じたい、ように思う。何故二人の相棒は、乗っちゃったんだろう? わからねえ。どうしてもわからねえ。恐らくは、何かに強い恐怖を抱いていたのだと思う。しかし、何が怖かったんだろうか……?

 で。この映画を撮ったのは、名作『The Hurt Locker』でアカデミー作品賞と史上初の女性で監督賞を受賞したKathryn Bigelow監督だ。わたしは手持ちカメラのブレブレ画像は嫌いなのだが。今回もそれを多用した(多用、はしてないかな?)、緊迫感のある映像で仕上げている。ただ、『The Hurt Locker』は本当に素晴らしい出来だったとわたしも称賛したいし、前作の『Zero Dark Thirty』も大変観ごたえはあったけれど、今回の『DETROIT』はどうだろうな……本作は「DETROIT暴動」を描いて黒人差別の怒りを描くというよりも、アルジェ・モーテル事件の方に焦点が置かれ、それも結局はイカレた警官3人組に重きが置かれているように見えるので、ある意味、この3バカ個人の罪に集約されてしまう恐れもあるような気がする。だけど、明確に3バカ3人衆を産んだのはアメリカという国そのものであり、個人の罪を追求するのはどうも本質的でないような気がしてならない。なんかもやもやするんだよなあ……。うーん……。
 さて、最後に、本作に出演していた役者を何人か紹介して終わりにしよう。本作では、わたしが明確に知っている役者は2人しかいなくて、基本的にそれほどなの売れていない方々ばかりであった。知ってる二人とは、新たな『スター・ウォーズ』の脱走兵でおなじみのJohn Boyega君と、MCUでのファルコンでおなじみのAnthony Mackie氏の二人だ。Boyega君が演じたのはC)に夜警の青年で、まあ、演技ぶりは絶賛レベルではないけれどまずまず。なんか、どうしたらいいんだと若干当惑しているような態度は、演技なら素晴らしいけど、なんか素で困ってるようにも見えたのが不思議。そしてAnthony氏が演じたのは、その時偶然モーテルにいたベトナム復員兵の役で、残念ながらあまり見せ場はなく、ひどい暴行を受けるだけの気の毒な役であった。
 そしておそらく、本作を観た人の印象に一番強く残るのは、クソ警官の一番イカレた男クラウスを演じたWill Poulter氏だろう。あっ!?なんてこった、まだ24歳だって!? 若い! どうやら彼は『The Maze Runner』や『The Revenant』に出ていたようだが、どんな役を演じていたか全然覚えてないなあ……ただ、非常に特徴のある顔なので、わたしはきっとどこかで観たことがある、と思っていたのだが、まあ、確かにわたしはいくつかの作品で彼に出会っているようですな。記憶にありませんが。しかしとにかく、何というか……ホント自らの行動が何をもたらすのか何も考えてないというか、思考力ゼロのとんでもない警官で、実際恐ろしく感じたっすね。そういう意味ではスーパー熱演だったと思う。

 というわけで、もう書くことがなくなったし、まとまらないので結論。
 『The Hurt Locker』で史上初の女性アカデミー監督賞ウィナーとなったKathryn Bigelow監督の最新作『DETROIT』を観てきたのだが、描かれていたのは恐ろしく後味の悪い、アメリカの狂気の一端であった。しかし後味が悪いと言っても、決して目を背けるわけにはいかない問題であることも間違いなかろうと思う。この映画で描かれた事件から既に50年が経過している今も、人種差別がなくなったとは間違っても言えないわけで、アメリカという国の抱える病巣は非常に根深く、恐らくはあと100年ぐらい経たないと、克服できないのではなかろうか、とわたしは感じた。でも、ひょっとしたらその100年のうちに、本当にDETROITという街にはROBOCOPが配備されてしまって、憎しみは絶えるどころか新たな憎しみを生みだしてしまうかもしれないな……はあ。人間、長生きして何かいいことあるんすかねえ? ホント疑問だわ……と暗ーい結論で、おしまい。以上。

↓ こちらはホントにもう素晴らしい出来です!
ハート・ロッカー(字幕版)
ジェレミー・レナー
2017-06-23

 わたしがDave Eggers氏なる小説家の作品『The Circle』を読んだのは、去年の12月のことで、その時このBlogにも散々書いたが、おっそろしく後味の悪い、実に気味の悪い作品であった。しかし、たぶん間違いなく、Eggers氏は確信犯であり、読者を不愉快にさせ、SNSなんぞで繋がってる、なんて言ってていいのかい? というある種の皮肉を企図している作品なので、その手腕はなかなかのものだと思った、がーーーいかんせん、物語に描かれたキャラクターがとにかく絶望的にひどくて、とりわけ主人公の女性、メイのキャラには嫌悪感しか抱かなかったのは、その時このBlogに書いた記事の通りである。
 ↓こちらが原作小説。あ、もう文庫になってら。映画合わせか。そりゃそうか。
ザ・サークル (上) (ハヤカワ文庫 NV エ 6-1)
デイヴ エガーズ
早川書房
2017-10-14

 というわけで、わたしがこの小説を読んだのは、この作品が映画化されることを知って興味を持ったためなのだが、その映画作品がようやく日本でも公開されたので、さっそく観てきた。
 ズバリ結論から言うと、映画版は小説のエッセンスを濃縮?というか、要するに短くまとめられており、雰囲気は非常に原作通りなのだが、結末はまったく違うもので、映画版はほんのちょっとだけ、すっきりすることができる仕上がりとなっていた。まあ、原作小説通りの結末だと、わたしのように不快に思う人がいると思ったからだろうか? わからんですが。しかし、なんか、うーん……そのせいで、若干中途半端であり、かつ、ある意味、本作の持ち味は相当薄れてしまったようにも思える。
 以下、いつも通りネタバレに触れる可能性が高いので、これから観に行く予定の人は読まないでください。つーかですね、わたしのBlogなんて読んでないで、原作小説をちゃんと読んだ方がいいすよ。

 さてと。えーと……今、ざっとWikiのこの映画のページを読んでみたのだが、ストーリーを記述した部分は……ちょっと違うんじゃね? と思える部分があるので、あまり信用しない方がいいと思う。わたしももう、ストーリーに関しては、さんざん小説版の記事で書いたので、もう書かない。以下に、原作とちょっとキャラの変わった二人の人物を簡単にまとめてみようと思う。
 ◆メイ:主人公。基本設定は小説版のまま変わってはいない、が、やはり、演じているのがハーマイオニーあるいはベル、でおなじみの元祖美少女Emma Watsonちゃんであるため、原作通りの頭の悪い女子を演じさせるのは難があったのだと邪推する。映画版のメイは、小説版よりほんの少しだけ、まともな人間になっていた。なお、小説版ではメイは何度かセックスシーンがあるが、映画版では一切ございません。別に期待したわけでは全くないけれど、メイのキャラクターを表す行動の一つだったので、その点でも映画版のメイは「まともな」人間に見えました。序盤は。わたしが印象的だったのは、かなり序盤で、入社1週間目にやって来る二人のイカレた男女に、結構露骨に嫌そうな顔をしていたシーンだ。その二人がどうイカレているかというと、メイは入社して1週間、頑張って仕事をしていたので、全く自分のプロフィールを編集したりする暇もなく、大量に寄せられるメッセージへの返事なんかも放置していたわけですよ。それを、「なんであなた、プロフィール公開しないの? え! カヤックが好きなの? なんだ、僕も好きなんだよ! それを知ってたら一緒に行けたのに!」とキモ男に言われるのだが、観ているわたしは、(なんでてめーと一緒に行かねえとならんのだこのボケが!)とか思っていたところ、Emmaちゃん演じるメイも、(……なんであんたと行かなきゃいけないのよ……)という顔を一瞬して、すぐに「ええ、ご、ごめんなさい、ちゃんとプロフィールも入力するわ」と慌ててつくろった笑顔を向けるという流れで、わたしはこのシーンにクスッとしてしまった。しかしこのシーンはこの物語を示すのに非常に象徴的であったとも思う。
 そしてラストに描かれる、「メイの元カレを探そう、イエーイ!」のコーナーも、小説版では極めて後味が悪く腹立たしいシーンだが、映画版でも実に気持ち悪く描かれていた。ここは原作通りなのだが、映画版ではこの事件をきっかけに、メイはまともな人間の反応を示す方向に行ったので、ここは物語が大きく原作と変わる重要ポイントとなっていた。そりゃそうだよ、映画版の反応は普通の、自然な反応だと思う。たぶん、小説版ではそれまでの出来事がかなりいっぱいあって、それらは映画版ではかなりカットされてしまったので、小説版のような反応をする説得力を持たせられなかったのではなかろうか。そのため、ごく自然な人間の反応を映画版は描かざるを得なかったように思う。そういう意味では、やっぱり映画版はかなりの短縮版だったと言えそうだ。
 ◆タイ:The Circleの創始者。会社経営のために雇ったCEOともう一人の重役の暴走を傍観するだけの役立たず、であり、小説版ではメイには正体を隠して仲良くなり、最後はごくあっさりメイに裏切られる愚か者、というキャラだったが、映画版では中盤? 前半?の段階でメイに正体を明かす。そしてキャラとしてもかなり変わっていたし、そもそも名前も変わっている。演じたのは、FN-2187ことフィンでおなじみのJohn Boyega君25歳。STAR WARSの”フィン”は確かに熱演だったと思うけれど、あれは元々が素人同然だから頑張ったと称賛できるわけで、はっきり言って、彼はまだ演技が全然だと思う。存在感が非常に薄く、物語的にもほぼ活躍しない。その結果、なぜタイはメイをこいつは使える、と見染めたのかもよくわからないし、エンディングも何となく、小説版のショッキング(?)なものではなく、若干のとってつけた感を感じた。
 とまあ、以上のように、小説がはらむ猛烈な毒はかなり薄まっているような気がする映画であった。小説版が猛毒なら、映画版は軽いアルコールぐらいな感じだとわたしには思えたのが結論であろうか。
 ただし、やっぱり映画という総合芸術の強みはその映像にあり、小説では脳内で想像するしかなかった「Circle」の各種サービスが鮮明な映像として提示されると、非常にリアルで、ありえそう、という実感が増していると思う。
 しかし思うのは、本当に現実の世はこの作品(小説・映画とも)で描かれる世界に近づいているのだろうという嫌な感覚だ。まあ、一企業のシステムに政府そのものが乗っかる、というのはあり得ないかもしれないけれど、現実に、納税とか公共サービスの支払いを既にYahooで支払えたりできるわけで、「あり得ない」が「あり得る」世界がやってきてしまうのも時間の問題なのかもしれない。わたしが願うのは、そうだなあ、あと30年だけ、そんな世界が来るのは待ってくれ。30年経ったらわたしはくたばっているだろうから、そのあとはもうどうでもお好きなように、知ったことかとトンズラしたいものであります。しっかし、メイにプロフィールを更新しろだのメッセージに返事しろ、コミュニティに参加しろ、なんて、「自由意志」よ、といいつつ「強制する」恐ろしい連中に対して、生理的嫌悪をいただかないとしたら、もうホントに終わりだろうな。おっかねえ世の中ですわ。
 あと、そういえばこの映画でわたしがとても痛感したのは、日本の国際的プレゼンスの失墜だ。本作では、主人公メイが透明化して以来、画面にさまざまな言語でコメントが現れるのだが、ロシア語や中国語、アラビア語なんかはかなり目立つのに、わたしが認識した範囲内では、日本語は一切現れなかった。とりわけ中国語が目立つわけで、なんというか、20年ぐらい前はこういう未来描写に日本語は必ずと言っていいほど現れてきたのに、残念ながらそんな世はもうとっくに過ぎ去ったんですな。実に淋しいすねえ……。
 というわけで、他のキャストや監督、脚本については特に思うことはないので終わりにするが、最後に、名優Tom Hanks氏演じたCEOと、メイの父親を演じたBill Paxton氏についてだけ記しておこう。
 本作映画版に置いて、Hanks氏演じたCEOは、結局は金の亡者(?)ともとれるキャラで破滅エンド(たぶん)を迎えたが、小説版ではもっと、本気で自分のやっていることがいいことだと信じて疑わない天然悪だったような気がする。そういう意味では小説版の方がタチが悪く、キャラ変したキャラの一人と言えそうだ。
 そして、Bill Paxton氏だ。彼と言えば、わたしが真っ先に思い出すのは、『ALIENS』でのハドソン上等兵役だろう。お調子者で文句ばかり言う彼が、最後に見せる男気が印象的な彼だ。Paxton氏は今年の2月に亡くなってしまい、エンドクレジットで、For Bill(ビルに捧ぐ)と出るので、本作が遺作だったようだ。享年61歳。まだお若いのに、大変残念であります。
 あ、あともう一人メモしておこう。主人公メイをサークルにリクルートする友人アニーを演じたのが、Karren Gillan嬢29歳。アニーのキャラは、ほぼほぼ原作通りであったが、演じたKarenさんは、わたしは観たことない顔だなーとか思っていたら、なんと、『Guardians of the Galaxy』の超危険な妹でおなじみのネビュラを演じた方だそうです。素顔は初めて見たような気もする。いや、初めてじゃないか、『The Big Short』にも出てたんだ。全然知らなかったわ。意外と背の高い彼女ですが、素顔は……うーん、まあ、わたしの趣味じゃないってことで。

 というわけで、またしても全くまとまりはないけれど結論。
 去年読んだ小説『The Circle』の映画版が公開になったので、さっそく観に行ったわたしである。その目的は、あの恐ろしく後味の悪い嫌な話が、映画になってどうなるんだろうか? という事の確認であったのだが、エンディングは全く変更されており、ほんの少し、まともな結末になっていたことを確認した。まあ、そりゃそうだろうな、といまさら思う。小説のままのエンディングだったら、相当見た人に不快感を与えるであろうことは想像に難くないわけで、映画という巨大な予算の動く事業においては、そこまでのチャレンジはできなかったんでしょうな、と現実的な理解はできた。それが妥当な理解なのか、全く根拠はありませんが。しかしそれでも、世はどんどんとこの作品で描かれる世界に近づきつつあり、小説版を読んだ時の感想と同じく、わたしとしてはその前にこの世とおさらばしたいな、と思います。切実に。長生きしていいことがあるとは、あんまり思えないすねえ……以上。

↓ どっちかというと、この作品で描かれる未来の方がわたし好みです。結構対照的のような気がする。こちらは完全なるファンタジーかつ、わたしのようなもてない男の望む世界、かも。
her/世界でひとつの彼女(字幕版)
ホアキン・フェニックス
2014-12-03




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