今現在、たいていの本屋さんには「ライトノベル」と呼ばれる中高生向け小説の棚がきちんと設置されている。すっかり市民権を得たというか、「ライトノベル」という言葉が通じてしまう世の中になった。もちろん、おそらくは50代以上には通じないとは思う。なぜなら、そもそもは1980年代後半から1990年代にかけて生まれたジャンルであるため、それが約25年前として、その頃既に大人だった人は知りようがないわけだ。逆に言うと、25年前に15歳だった人が今、40歳なのだから、少なくとも30代以下の人にとっては、おそらくは普通に知っているものであろうと思う。
 要するに、カバーにイラストが描かれている10代向けの小説と思っていただければいいわけだが、ありがたいことに、いまだに読み続けてくれている30代~40代も非常に多く、市場として、出版業界が厳しい中、今でもそれなりの規模を誇っているのが「ライトノベル」という小説ジャンルである。
 で。
 わたしはライトノベルに相当詳しい人間の一人であるという自負があるが、そのわたしが断言してもいいと思っていることがひとつある。それは、1998年に発売されたとある作品が世に現れることがなかったならば、今のライトノベルの隆盛(もちろんここ数年は落ち込んでいる)は、決して存在しえなかっただろう、ということだ。
 その作品の登場によって、ライトノベルのナンバーワンレーベルである「電撃文庫」の今がある。その作品の大ヒットがなければ、確実に、「ライトノベル」そのものが、もちろん存在はしていたかもしれないが、今のようにどこの本屋さんでも棚が造られるほど、世に認知されることはなかった。それはもう、コーラを飲んだらげっぷが出るのと同じように確実な事実であると断言する。 
 その作品とは、上遠野浩平先生による、『ブギーポップは笑わない』という作品だ。
 1998年2月に発売された作品なので、正直、今読むとやや古い。あの当時はまだ携帯もそれほど普及していなかったし(当時わたしはポケベルから進化してPHSを使っており、携帯に移行するまさにそのあたりの時期) 、インターネットも、既に存在していたけれど、まだまだ原始的なWebサイトしかなかった。amazonだってまだ日本でのサービスは開始していないし、googleマップなんてまだない時代である。しかし、そういった時代を反映する小物類は古いかもしれないが(なにしろ主人公の女子高生はルーズソックス着用だ!)、物語としてはまったく色褪せないものがあり、実際、今読んでも非常に面白い作品である。
 『ブギーポップは笑わない』という作品が真に偉大な点は、例えば、それまで異世界ファンタジー主体だったライトノベルに、現代の現実世界を舞台として導入したことなど、実はいろいろあるのだが、わたしが最も重要というか、最大のポイントだと思っていることは、「普通の大人が読んでも非常に面白い」点にある。要するに、小説としての完成度が抜群に高いのだ。しかもデビュー作である。電撃文庫は、この才能を得たことを永遠に感謝し続けるべきだと思う。1998年からすでに18年が経過したが、いまだに『ブギーポップは笑わない』よりも小説として優れた作品はないと思う。この点は自信がないので断言しないが、たぶん、わたしと同じぐらい小説を読んでいる人ならば同意してもらえるような気がする。
 そんな『ブギーポップ』だが、もうすでにシリーズとしては20冊近く刊行されていて、おそらく今から新規読者を獲得するのは難しいかもしれない。さらに言えば、上遠野先生の作品はどのシリーズでもちょっとしたつながりや明確な関連があり、その全貌を理解するのは全作品を読まないといけない。しかし、タイトルに『ブギーポップ』とついていない作品も含めるとその数は40冊近くなる。そんな点も、新規読者には障壁となってしまうだろう。去年だったか、とうとう電子書籍での刊行も始まったので、わたしはこの期にすべて電子で揃えようかと考えている。まだ実行していませんが。
 というわけで、またいつものように長くなったが、以上前置きである。
 今月、電撃文庫より『ブギーポップ』の久しぶりの新刊『ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティブ・エゴの乱逆』という作品が刊行されたので、わたしは喜んで買ってさっそく読み、うむ、やはり上遠野先生は すごい、そして『ブギーポップ』はライトノベル最高峰の作品であろうという認識を新たにしたわけである。
ブギーポップ・アンチテーゼ オルタナティヴ・エゴの乱逆 (電撃文庫)
上遠野浩平
KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
2016-03-10

ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))
上遠野 浩平
メディアワークス
1999-06

 というわけで、今回の新刊について少し感想を書き留めておきたいのだが、既にさんざん前置きで書いた通り、『ブギーポップ』シリーズは巻数も多く、登場人物もかなり膨大でわたしもはっきり言って「コイツ誰だっけ?」と思うぐらいだし、話もかなり忘れかけているので、詳しい説明はもうあきらめることにし、あくまで新刊の話だけに絞って書こうと思う。
 今回のお話は、「カミール」こと織機綺(おりはた あや)をめぐる、統和機構に属する二つの勢力の争奪戦である(もう、統和機構って何? とか、カミールって誰? という説明はしません。シリーズを読んできた人にはおなじみの言葉)。どうやら、カミールはこれまでは「無能力」として放置されていたのだが、実はその「無能力」こそが重要で、「合成人間を人間に戻すことができるかもしれない存在」として、二つの陣営はカミールを確保したがっているという状況である。そこに、綺の恋人たる正樹くんも巻き込まれていくという展開なのだが、今回はある意味シリーズ最強のキャラクター、綺の保護者であり、正樹くんの腹違いの姉である「炎の魔女」こと霧間凪は登場しない。この戦いの趨勢は、いつもの通り読み応え抜群で大変面白かったし、今後の綺の立ち位置も、これまでとは決定的に変わってしまうところで終了である。
 実のところ、上遠野先生の作品は、思想としてあるいは哲学として極めて興味深い記述が多く、おそらくわたしがこのシリーズを大学生当時に読んでいたなら、この思想について、本気で論述して卒論を書いたかもしれないとさえ思う。上遠野先生の人間に対する観察眼は非常に厳しく、示唆に富んだ指摘が多く、また、その指摘は極めて鋭い。その思想は小説として描かれているので、前面に出てくることはないが、おそらく現代日本においてTOPクラスの思想家ではなかろうかと思う。中沢新一先生あたりが本気で論述してくれたら面白そうなのだが、もはやわたしにとって上遠野先生の作品は、ある種の哲学書として楽しむべきものと認識している。
 今回、問題となるのは、タイトルにある「オルタナティブ・エゴ」というものだ。作中では、シリーズ随一の頭脳の持ち主としておなじみの末真和子と、前述の「炎の魔女」霧間凪の会話(を綺が思い出す回想シーン)で以下のように説明しされている(P.123)。
「とにかくオルタナティブ・エゴよ。我を張るくせに、そこには自分がなんにもないのよ。そういう例よ、それって」
「それってあれだろ、もう一人の自分とかそういう意味だろ」
「それはアルターエゴよ。心理学でいう自己の分身って方。ここでのオルタナティブ・エゴっていうのは、代案とかもう一つの選択とか傍流とか、そういった方の意味。要は、"なんか別のもの"とかいうような感じ」
「もう一つの自分、ってなんだよ」
「自分ではないのに、自分になってしまっているものよ。そういうものが人間の心の中にあるってこと」
(略)
「まあ、俺なんかはエゴの塊だからな」
「でも凪のエゴは決して利己的なものではなくて、理不尽と戦うための武器になっている。誰でもない自分という誇りがある。そういうのが正しいエゴだとすれば、オルタナティブ・エゴは誰でもいい自分、とでもいうべきもの。それは縄張り意識だけがとても強くて、内面の充実をほとんど考慮しない――そして何よりも、嘘つき」
「ああ、親父が嫌いそうな話だな」
「気にするのはいかに責任を逃れるか、破たんを避けるかということだけで、自分が何かを生み出したいとか、達成したいとかいう夢がない。そういう形でのエゴ――意志なき傲慢。無思考の厚顔無恥。それがオルタナティブ・エゴ。目的が、単なる言い訳になっている……卑怯者の自己正当化よ」
 今回の事件の中で、綺はかつて末真さんから聞いた上記の話を思い出し、まさしく自分も、そして自分を狙ってくる勢力も、オルタナティブ・エゴにとらわれているのではないかと考え、そこからの脱出を決意する。それが今回のお話の筋である。
 この「オルタナティブ・エゴ」という概念は、わたしには非常に興味深いものだ。なにしろ、リーマン生活を続けていると、出会うのはそんな奴らばかりなのだから。どうだろう、要するに思考停止の木偶の棒、ってところだろうか? 与えられ植え付けられた価値観を自分固有のものと「勘違い」して、中身のない言動をとる。中身がないだけならまだましで、その空っぽな言動で他者を攻撃し、とにかく空っぽな自らを守ろうとする。そういう奴、いっぱいいるでしょ? ただ問題は、そういう空っぽ星人どもをどうすべきかという事で、だからどうする、が明確には語られていない。作品の中で描かれるのは、そのことに気付いた綺の行動だけである。だからその「だからどうする」については、参考例として綺の決断と行動を描くので、あとは自分で考えろ、というのが上遠野先生のスタイルである。また、上遠野先生は、おそらく、だからダメなんだという価値判断も下していない、と思う。もちろん上遠野先生は、作中人物の末真さんの口を借りて、「卑怯者」とネガティブ判定しているわけだが、上遠野先生お約束のあとがきを読むと、それが人間だもの、しょうがないよ的なある種のみつお的な諦念めいたものも感じられる。これは、哲学系・思想系の本で非常に良くあるパターンだ。想像するに、ちょっとカッコイイこと書いちゃったけど、オレもそんな立派じゃねえしな、という著者の迷いのようなものなのではないかといつもわたしは感じている。なので、わたしはちょっと安心したりするわけで、そういった思想をエンタメ小説という形で発表し続ける上遠野先生は、本当にすごい作家だと思います。

 というわけで、いつにも増してまったくまとまりがないけれど、結論。
 やはり上遠野浩平先生も、作品を通じて自らの思想を表現しているという点において、手塚治虫氏先生同様の天才であると思う。本作も大変楽しめた。が、あまりに長いシリーズなので、やはり電子書籍ですべて買い直して、最初から読み始めよう、そして、今後の上遠野先生の作品は必ず読もう、と心に誓ったわたしであった。以上。

↓ 上遠野先生のJOJO好きは有名だが、コイツは本当に超・傑作。素晴らしすぎて最高です。