はー。くそう。妙に忙しい。
 というわけでまったく書くネタがないので、今朝、電車の中で読み終わった作品を取り上げる。
 おととい、ここでも取り上げた、わたしが大ファンの作家、上遠野浩平先生の、2007年の作品になるのかな? その作品の存在は前から知っていたけど、わたしの大嫌いな講談社から出ているので、なんとなく今まで読んでいなかったのだが、先日『無傷姫事件』を読んで、やっぱり上遠野先生の作品は全部読まないとアカン、と認識を新たにし、おととい、電子書籍を買ってみた作品が、『酸素は鏡に映らない』という作品である。

 恐らく、上遠野先生の作品をずっと読んでいる人には、このタイトルからして、ははあ、アレか、と思い当たることだろうと思う。わたしも実際、このタイトルを見て、「お、これはひょっとすると……」と予想したのだが、まさにその通りの物語であった。
 上遠野先生の『ブギーポップは笑わない』という作品は、先生のデビュー作であり、また、現在のライトノベルの市場を形成するにあたり多大なる貢献をしたのは間違いない。そのことは、3月に、このBlogでその「ブギーポップ」シリーズの最新作を読んだときに書いた通りだが、「ブギーポップ」シリーズには、「オキシジェン」というキャラクターが出てくるのである。確か、わたしのあまり当てにならない記憶によると、シリーズ11作目かな? 『ジンクス・ショップへようこそ』という作品で出てきたキャラクターで、それ以降何度か登場していたと思う。シリーズの中でかなり重要な人物で、「統和機構」の「中枢(アクシズ)」であり、どうやらその役割は終わりつつあって、次の「中枢」を担う者を探している(?)というキャラクターだ。そして、その候補者として、第1作目から我々読者にはお馴染みの、通称「博士」、本名・末真和子ちゃんが選ばれる――と、当時大興奮の展開となったわけで、とにかく、「酸素」と聞けば、我々上遠野先生のファンは、「ははーん。オキシジェンの話だな?」と想像がつくわけである。
 というわけで、ここまで、私が何を言っているか分からない方は、以下を読んでもまったく無駄ですので。さようなら。

 で。分かる人は、まあ大半の方は既に本作『酸素は鏡に映らない』を当然のように読んでいると思うので、これまた以下を読んでも、たぶん、超今さらです。わたしも、さっさと読んでおけば良かった、と実に後悔している。なぜなら、非常に面白かったからだ。

 物語は、とある小学生・健輔が、公園で偶然(?)、オキシジェンと出会うところから始まる。クワガタが飛んでいるのを追いかけてきた小学生、ブランコに止まったので、獲ろうとすると、そこには男が座っていた。まったく気が付かなかったことに驚く健輔。だが、我々は彼を知っている――!! その存在感のなさは、まさしく「オキシジェン」。クワガタが欲しい健輔は、問いかける。
 「その虫――えと、あなたのですか」
 そんな馬鹿なと自分でも思う健輔。犬や猫じゃあるまいし、と思いながらもつい聞いてしまった彼に、オキシジェンは答える。
 「……ふたつにひとつ、だ。」
 「え?」
 「欲しいものをあきらめるか、それとも死ぬか……どっちがいい……?」
 こんな出会いから二人の物語が始まるわけで、このあと、元売れっ子俳優の青年・守雄と、健輔の姉の絵里香が登場し、三人はオキシジェンの言葉を元に、謎に包まれた「エンペロイド金貨」を調べ始めるという展開である。この「エンペロイド金貨」というのは、後の作品『螺旋のエンペロイダー』にも出てくるのだが、どうも初めて出来たのはこの作品なのかな? わたしは、逆に後の『エンペロイダー』の方を先に読んでいたわけで、おっと、ここで出て来るんだと驚いた。
 そして、たぶん本作で一番の特徴は、元売れっ子俳優の守雄が出演していた、変身ヒーロー番組のストーリーが、時折ゴシック体で記述される点であろうと思う。これがまためっぽう面白い。この番組観てみたいわ、と思わせる面白さで、しかも本作のストーリーにも関係していて、非常にイイ。
 そもそも、上遠野先生は、デビュー作の『ブギーポップは笑わない』を書くときに、「変身ヒーローモノ」を書こうとした、と、どっかで語っていたと思うが、確か、上遠野先生は仮面ライダーが大好きだったはずだ。その「変身ヒーロー」番組の主役をやっていた青年を登場させたのは、そんな背景もあるのだろうか。つか、上遠野先生が書いた特撮ヒーロー番組が見たいですな。きっと凄まじく面白いと思うのだが。わたしも仮面ライダーが大好きなので、本作は非常に楽しめた。

 あと、本作のキモとなるのは、やはりオキシジェンと健輔の会話にあるのは間違いないけれど、これがまた非常に、なんとも説明しがたく、これはもう読んでもらうしかなかろうと思う。ある意味哲学的な問答なのだが、わたしが非常に驚いたというか、そうなんだ、と思ったのは、オキシジェンは健輔との対話を「楽しんでいた」のである。健輔のどこに、オキシジェンは惹かれたのか。これは非常に難しい。健輔は普通の小学生であり、ひょっとしたらそういった子供の素直さに興味を持ったのかもしれない。しかしそうなると、別に誰でも良かった可能性もあり、健輔ならではのポイントがあったはずなのだが、残念ながらわたしには、これだろうという決め手になる部分は分からなかった。以下、オキシジェンと健輔の、最後の会話部分だけ、記録として引用しておこう。
 「どうでもいい子供……自分はそういうものだと、思うか……?」
 「え、そりゃあ、だって、おれみたいな小学生なんて、どこにだっているし」
 「そこにでもいると、意味はないのか?」
 「意味ないってことは、ないだろうけど――でも、やっぱり大したことはないよ。だってさ、世の中にはもっとこう、すごい人とかがいてさ、みんなからも認められてて、そんでもって――」 
 「…………人間は、わかりやすい意味に突き動かされて、生きている……力のため、美のため、富のため……そういうものに意味があると信じている……しかし、そのどれもが人間の錯覚にすぎないとしたら……そうそれこそどうでもいいものなのだとしたら……そして……自分が望んでいたはずのものを手にしながらも、なおも不幸であり続ける人間が後を絶たないこの世界に……その真の意味がどこにあるのか、見つけられた人間はまだ存在していないのかもしれない……だから人は求める」
 「……って何をさ? だからさ――あんたはおれに何をさせたいんだよ? おれなんか、なんにもできないよ」
 「いや――もう、してもらったよ。君にはもう充分なことをしてもらった。僕は――君に会えてよかった。あるいは僕にとっては――君が、求めていたものだったのかもしれない……」
 「な、なんのことだよ? おれ、なんかしたかなあ?」
 「酸素と、同じだ……それが必要だったと、思い出せた――人であったことの、これが最後の……想い出だ。君と、とりとめのない話をして、なんとなく楽しかった……それだけだ」
 「は?」
 「それだけだが、それでも……続けてきた意味があった、と思う……」
 「続けた? って何を? ……えと」
 ここでもう、オキシジェンの姿は健輔の目には映らなくなって姿が消えてしまう。
 この部分だけ呼んでもまったく意味不明だろうけれど、一体おどういうことなのかは、本作を読んで、いろいろ考えてみると大変面白いと思う。まあ、わたしには良く分かりませんでしたが、一応、いろいろ想像はつくわけで、そういった、書かれていないことをぼんやり考えることこそ、読書の醍醐味かもしれないすな。

 というわけで、結論。
 本作『酸素は鏡に映らない』は、上遠野先生のファンならばやっぱり読んでおいた方がいいですな。そして完全に一見さんお断りの世界なので、本作だけ読んでもまるで意味不明なのではなかろうか。なお、ラストに、大学生になった末真博士が――既に「カレイド・スコープ」の護衛のついた状態で――出てきます。たぶん、一連のシリーズの時間軸的には、かなり後半だと思う。なので、その意味でもかなりシリーズにおける重要度は高い作品だと思います。しかし……ホントに上遠野先生は、現代日本の作家の中で、確実にTOPクラスの天才であり、また、現代日本の思想界におけるTOPクラスの哲学者ですよ。最高です。以上。

↓さて、次はコイツを読むか……。