「モービーディック」と言えば、日本では『白鯨』として知られる小説である。
 Herman Melvilleによるその小説は、アメリカ文学史上燦然と輝く古典として有名なわけだが、わたしも確か大学院生のころに読んで、かー、こりゃまた読みにくい、と思った覚えがある。さっきわたしの本棚を漁ってみたら、岩波文庫版の<上><中><下>の3冊が出てきた。奥付によると、1994年発行のものであるらしい。もう読んだのは20年以上前なので、「読みにくかった」という印象しか残っていないが、まあ、この作品が書かれたのは1851年、つまり江戸時代、幕末期なので、そりゃあ読みにくいのも当たり前と言ってよかろう。翻訳も、いわゆる古典めいたものなので、その読みにくさは結構ハンパない。
 ただ、その物語が実話をベースにしていることは、正直知らなかったというか、全く意識したことはなかった。岩波文庫の解説(なぜか<上>の巻末に掲載されている。<下>じゃなくて)にも、Melvilleが『白鯨』を書くに至った時代背景などは妙に詳しく書かれているけど、ちょっと引用してみると、「メルヴィルはこれを書くに当たっては、自分の海洋生活の体験を元としたことはいうまでもないとして、捕鯨についての多くの記録を渉猟したのである。たとえば、抹香鯨に1820年に沈められたエセクスという船があったり(略) しかし、そういう体験や勉強を基として、メルヴィルは測り知ることのできぬほど強力な想像力をはたらかせ」ることで、書いたものだそうだ(※岩波文庫版<上>P.331より)。なので、わたしは全くのフィクションだと思っていたし、まあそういう認識でいいのだと思う。
 というわけで、相変わらず無駄に前書きが長くなったが、昨日観た映画、『IN THE HEART OF THE SEA』(邦題:白鯨との闘い)は、Melvilleの『白鯨』を映画化したものではなく、その元となった実話(ベースの本)を映画化した作品で、まさしく、上記に引用した部分で触れられている「エセクス号」の物語だ。

 たぶん、一番世の中的に、へえ、そうなんだ? と誰もが思うポイントは、この物語は1820年という、日本で言うと江戸時代の話であるという事ではなかろうか。当時の世界情勢をちょっと振り返っておくと、まず舞台となるアメリカは、南北戦争よりずっと前であり、まだいたるところでインディアンが虐殺されている時代で、西海岸はまだスペインやメキシコ領だったり、今とは全く国境線も違う時代である。ヨーロッパはというと、ナポレオンが失脚してまだ数年しか経っていない頃合いで、ようやく、今のヨーロッパに近い(あくまでも近いだけで詳細はかなり違うけど)国境線が出来つつある頃だ。文化的に言うと、まだ文豪ゲーテは現役だし、ベートベンなんかも「第9」を書いているころである。日本はというと、当然鎖国中で、将軍家としては11代将軍家斉の時代である。そんな時代の話だということは、意外と誰しも、へえ~? と思うのではなかろうか。
 すなわち、産業革命前の世界であり、蒸気機関も生まれたばかりでまだ船の動力としては使われておらず、本作で登場する捕鯨船も、もちろんのこと帆船である。また当然電気もない。石油が発掘されて産業に利用されるのもまだ数十年後だし、ガス灯も、かろうじてイギリスで設置されていた程度で、普及していたとは言いがたい時代である。何が言いたいかというと、この時代、人類が夜を克服するための明りとして「油」は非常に貴重で、かつ需要も高かったということだ。そして当時のアメリカにおいて、さまざまな「油」がある中で、「鯨油」は重要な産業資源であったということである。
 なので、現代アメリカ人には捕鯨反対を声高に訴える連中がいるが、そもそもお前らが乱獲したんだろうが!! という歴史がある。もちろん、日本でも捕鯨は盛んであったようで、Wikipediaによれば享保から幕末にかけての130年間で21,700頭にも及んでいたそうである。もちろん、鯨油が欲しかったのは日本もそうだが、日本人は食糧としてもおいしくいただいていたわけである。
 ま、こんな話は今回はこの辺にしておこう。
 一応、こんな歴史的背景を知っておいたほうが、本作はより興味深いとは思うが、実は、本作の一番の見所は、わたしとしては捕鯨ではなく別のところにあった。
 まず、本作の物語の構造を簡単に説明しておくと、作家Melvilleが、エセックス号の事件の30年後に、唯一まだ存命の生存者に取材に行き、その生存者が少年の頃に遭遇した悲劇が回想として描かれる構成になっている。そして、エセックス号はいかなる航海を経て「白鯨」と出会い、沈没するに至ったのか、が語られる。そこでは、船長と一等航海士の確執があったことや、初めてクジラを仕留めたときの興奮などが描かれるが、わたしが一番の見所だと思うのは、エセックス号が白鯨によって沈められた後の、漂流の顛末である。そこで描かれる極限状態ゆえに、少年は老人となってMelvilleが取材に来るまで、「あの時何が起こったのか」を誰にも語ることが出来なかった。そのすさまじい様子は、ぜひ劇場で観ていただきたい。
 いわゆる「漂流もの」は、今までいろいろな映画で描かれているが、最近で言えば、まさかのアカデミー監督賞を受賞した『LIFE OF PI』だろうか。あの映画はなんとなくファンタジックなところがあって、ちょっと微妙だが、わたしのイチオシ「漂流」映画はやはり『CAST AWAY』であろう。わたしがあまり好きではない、Tom Hanksのベストアクトだとわたしは思っている作品だが、とにかく、漂流後のガリッガリに痩せたTom Hanksの、悟りを開いた仙人のような眼差しが凄まじい映画である。今回も、一等航海士を演じたマイティ・ソーことChris Hemsworthの、げっそり痩せた姿を観ることができる。あれって、CGかな? 本当に痩せたのかな? ちょっと、わたしにはよく分からなかったけど、結構衝撃的にげっそりしたマイティ・ソーは、劇場へ行って観る価値があると思う。
 役者陣としては、あと3人、わたしに深い印象を残した演技を披露してくれた。
 まず、事件当時最年少の船員を演じた、Tom Holland君である。彼は、日本では2013年に公開された『The Impossible』でスマトラ島沖地震による津波に遭う家族の長男を演じて注目を浴びたが、何しろ今後、彼をよく覚えておいて欲しいのが、次期『SPIDER-MAN』を演じることが決まっており、今年のGW公開の『CAP:CIVIL WAR』に早くも出てくることが噂されている。今年20歳になるのかな、まずまずのイケメンに成長するのではないかと思われる注目株である。本作でもなかなか悪くないです。本作で早めのチェックをお願いしたい。
 次は、Cillian Murphy氏である。もうかなりの作品に出ているが、わたしがこの男で忘れらないというか、この男を初めて観たのが、Danny Boyle監督の『28Days after』だ。冒頭、無人のロンドンをうろつく彼は非常に印象的だが、その前の、素っ裸で目覚めたばかりの彼の股間がモザイクナシでブラブラ映っているのが、わたしは椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。えええ!!? だ、大丈夫かこの映画!? と妙なことが心配になったものだ。本作では、Chris Hemsworthが一番信頼する航海士を演じており、彼もまたガリガリに痩せて髪はボサボサ髭ボーボーの姿を見せてくれる。
 で、3人目に挙げたいのが、若きQとしてお馴染みのBen Wishaw氏である。本作では、作家Melville役で出てくるのだが、この人、わたしとしてはどうにも『CLOUD ATLAS』でのBLシーンが強烈な印象が残っていて、3月公開の『The Danish Girl』(邦題:リリーのすべて)でも、2015年のアカデミー主演男優賞を受賞したEddie Redmayne氏と熱いラブシーンがありますね。どうにも、目つきからしてBL臭を感じさせる独特の空気感を持った男だが、どうやら本物らしく、同姓婚したそうです。別にわたしは偏見はないので、お幸せになっていただきたいものだが、全国の腐女子の皆様のアイドルとして日本でも人気が出るといいですな。※2016/01/18追記。この男、『Paddinton』で紳士過ぎる熊さんの声も演ってるんですな。へえ~。
 最後に監督のRon Howard氏であるが、さっきこの監督のフィルモグラフィーを調べてみたら、たぶんわたしは全作観ているんじゃないかということが判明した。手堅いベテラン監督で本作もいつも通り見せるところは見せながら落ち着いた演出であったと思う。見所となる「白鯨」のCGは質感も高く、本当に生きているようで申し分ナシである。が、やはり本作は3Dで観るべきだったのかもしれない。わたしは2D字幕で観てしまったが、3Dであればもっと迫力の映像だったのかも、とは思った。まあ、いずれにせよ、なるべく大きなクリーンで観ていただくのが一番であろう。 

 というわけで、結論。
 どうでもいいことばかり書いてしまったが、『IN THE HEART OF THE SEA』(邦題:白鯨との闘い)は、わたしとしては「白鯨」よりも、船内の緊張感や沈没後の漂流の様子のほうが見所だと思った。役者陣の熱演もなかなかですので、ぜひ、本作は劇場の大スクリーンで観ていただきたいものである。以上。

↓ Ron Howard監督は今、「ラングトン教授」シリーズ最新作、『INFERNO』を撮影中だそうですよ。
インフェルノ (上) (海外文学)
ダン・ブラウン
角川書店
2013-11-28

インフェルノ (下) (海外文学)
ダン・ブラウン
角川書店
2013-11-28