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 Mel Gibson氏と言えば、80年代に青春を送った我々40代後半のおっさんにとっては、初代マックス、あるいはリッグス刑事としてお馴染みのヒーローの一人であるし、監督としてはアカデミー監督賞も受賞した映画界の大御所の一人、であるはずなのだが、どういうわけか2000年代後半からはDVや飲酒運転でお騒がせオヤジと化し、一時期完全にハリウッドから背を向けられてしまった残念なオーストラリア人である。
 まあ、そんな怒れるオージーとしてハリウッドから半ば追放されたわけだが、これまたどういうわけか、みそぎが済んだのか良く分からないけれど、2010年代に入ってからはまたぽつぽつと映画に出演し始め、いよいよ久しぶりの監督作品を世に送り出した。タイトルは『HACKSAW RIDGE』。対日沖縄戦を描いたものらしい、と最初に情報を得たとき、わたしは、へえ? と思って調べてみたところ、タイトルの「HACKSAW RIDGE」とは「弓鋸の崖」という意味であり(※Saw=のこぎり、Ridge=崖)、沖縄の現在の「浦添城址」の南側の「高田高地」と呼ばれた崖のことであることを知った(※浦添市の公式サイトにすっげえ詳しい解説があります→http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2017052900033/)。なるほど、てことは、沖縄戦の激烈な戦いを舞台とした『PLATOON』とか『Heartbreak Ridge』的な、ああいう映画かな、と、まずはわたしは盛大な勘違いをしていた。Mel Gibson監督なら、大規模戦闘の描写は文句なく激しく迫力満点であろう、なんてことも頭にあったのは間違いない。しかし、US版の予告が公開されて、観てみると、どうも、わたしの完全なる予断は8割方は合っているように思える、が、どうやら主人公は衛生兵(Medic)で、しかも銃を手にしないという点にドラマの主軸があるということを知って、ますます興味がわいたのである。
 というわけで、今日、早速観てきたのだが、確かに物語は米軍側から観ればかなり美しものの……結論から言うと……なんというか、日本人的にはやっぱり複雑だし、やはり、日本人としてはいろいろと理解が難しい物語であるように思えた。わたしはキリスト教徒じゃないし……そもそもの殺し合いは否定しないんだ、というのはちょっと不思議に思えたのである。これは賛否両論だろうな……まあ普通の人なら、主人公の戦場での献身に心打たれてしまうのかな……要するにわたしが冷たい男である、ってことの証左なのかもしれないなあ……。

 基本的には、上記予告のとおりである。一人も敵を殺さない兵士。いかに衛生兵(Medic)とはいえ、まあ、ズバリ言えばそれは矛盾しているというかあり得ないわけで、わたしとしては本作のポイントは、主人公デズモント・ドス君が、「人殺しはしない」ことと「軍人であること」をいかにして矛盾せずに成立させるのだろうか、という点にあるのだろうと思っていた。おそらく、決して先制攻撃をしない専守防衛を任務とする日本の自衛官であってさえ、有事となれば人を殺し、そして自らも殺される可能性があることを明確に想定し、覚悟しているはずだ(たぶん)。
 もちろん誰だって、人殺しはしたくないのは当たり前だけど、なら軍人にならなきゃいいじゃん、と、普通は考えると思う。戦中の日本では考えられないことだが、US国内においては「良心的兵役拒否」というものがあるわけで、軍人にならずとも国家に貢献できる道は制度としてきちんと存在したのだから、あえて軍人になる必要は、実際のところないといっていいはずだ。この点を理解するのは、はっきり言ってちょっと難しいと思う。
 劇中では、なぜ人殺しをしたくないか、銃に触れたくないか、という点が前半語られている。
 幼少期に起きた出来事として冒頭に描かれるのは、兄との楽しい毎日だ。しかし、ある日、庭で喧嘩をしていて、思わず手にしてしまったレンガで兄をぶっ叩いて、危うく殺しかけてしまう事件が起きる。兄は幸い無事で命に別状はなかったが、危うく殺しかけたのは事実で、そのことで、幼いデズモントの心には、十戒でいうところの第6番目「汝、殺すなかれ」を破ってしまいそうになった自分におののき、ますます信心を深める、ということになる。正直に言えば、キリスト教徒ではないわたしには、なんだそれ、である。いや、兄弟げんかにレンガはナシでしょ、宗教は関係なしに。
 そしてもう一つのカギとなるのは、父との関係だ。父は、第1次大戦に従軍した退役軍人である。1次大戦で多くの友を失い、心に傷を負った父。そして退役後は信心を深めるも、心をの傷をいやすためか、飲んだくれてしまい、よく母とけんかをしていた父だったが、ある日、母に向かって銃を向けてしまい、両親のけんかに耐えられなくなったデズモント君(推定10代後半にまで成長)は、父から銃を奪い、思わず父に銃を向けてしまう。しかし父は、むしろもう死にたくなっていた。引き金を引け!と涙を流しながら乞う父。こんな出来事があって以降、デズモント君は銃には二度と手を触れない、と誓うのであった……って、これまたなんじゃそりゃ、である。なんか……当たり前っつーか……。
 とまあ、以上の二つの出来事によって、デズモント君は、殺しはしない・銃は手に取らない、ということを信条にした青年であることが、わたしには全然理解できないけれど、説明されている。けど、軍に入隊するきっかけは、正直わたしには良く分からなかった。一応、劇中で語られているのは、自分だけ安全なところでのんきにしていられない、的な言葉はあったけれど、まあ実際それだけである。
 で、入隊した訓練キャンプでは、当然、問題になる。銃をとれ。できません。これはお願いじゃない、命令だ。銃をとれ。できません。上官の命令に聞けないなら、それは重大な軍規違反であり、軍法会議にかけられるがいいんだな。はい。―――とまあそんな展開である。しかも上官は、お前には無理だから、もう除隊なさいよ、とかなりデズモンド君を思いやっているのだ。それでも引かないデズモンド君。そして嫌がらせを受けても、決して誰のせいにもしない態度で、周りの仲間たちの信頼も芽生えてくる。それでも信念を曲げず、貫こうとする姿に、わたしは今年の初めに観た『Silence』を思い出した。主人公デズモントを演じたのは、まさしく『Silence』で宣教師ロドリゴを演じたAndrew Garfield君である。誰もが、本心では信仰を捨てないでいていいから、ほんの形でもいいから踏み絵を踏んでくれ、と願ったあの状況と、実によく似ている。ライフルに触るだけでいい。もう撃たなくていいから、と言っているのに突っ張り、軍法会議に立たされることになったデズモンド君。もちろん、江戸時代の宣教師ロドリゴとデズモンド君では、その危機的状況は較べようもないほど違うものだ。ロドリゴは、拒めば自分ではなく大勢の信者が殺される。デズモンド君の場合は、有罪となれば終戦までずっと監獄で過ごすことになるが、別に命はかかっていない。そもそも、どうも信仰の問題、ではなく、あくまで自分の生き方の問題、すなわち信条、信念の問題という違いがあるような気がする(もちろんその信条の基本にあるのは信仰だろうけど)。なのでわたしはこの軍法会議の行方は一体どういう決着がつくんだろう? と思って見守っていたのだが、なんとこの場を収めたのは、父の愛であった。父が、1次大戦を共に戦った元上官が、現在かなり高位に出世していたため、その高官に直訴してなんとかなったのである。わたしはこの、ある意味スーパー他力本願な結末に、結構、がっかりしたというか……なーんだ、と思った。
 わたしは、こういった前半での物語に、結構冷めた目で見ていたため、なんつうか、良く分からねえ、とかそんな思いでスクリーンを眺めていた。
 そして物語は後半、沖縄での戦場に移る。だがこの戦場シーンも、きっと史実に即した正しい描写なんだろうけど、どうもわたしには良く分からないところがあった。それはUS陸軍の作戦で、戦略拠点の制圧を目的に侵攻しているのだが、洋上の戦艦からの艦砲射撃で徹底的にたたく→歩兵を投入して残存兵力掃討→制圧、というある意味鉄壁な作戦なのだが、すさまじい艦砲射撃(多分当時の最大火力ではなかろうか)で日本軍はボロボロ、と思いきや、US陸軍の歩兵が掃討戦を始めると、日本兵が異様にもうわらわらと湧いて出てくるのである。そしてUS側には航空支援は一切なし。あれは……どういうことなんだろうか?? US側はもう制空権をがっちり握っていると思うのだが……そして一応、日本兵は硫黄島並みの地下通路を張り巡らせていた的な描写はあったけれど、戦艦の艦砲射撃にも耐えうるものだったのだろうか?? これはわたしが無知なだけかもしれないけれど、まあ、日本軍はおっそろしく強い相手として描写されていましたね。結果、US陸軍の歩兵たちにも甚大な被害が出る。そして、いよいよ衛生兵Medicデズモンド君の大活躍が始まる、という展開である。
 とまあ、こういう物語なわけで、なんだか突っ込みを入れてしまいたくなるお話なのだが、そういえば、デズモンド君の個人的信条は、一応、だれにも迷惑をかけていないのかも、ということに、わたしは観終わってふと気が付いた。軍法会議を開催するにあたっての事務方の負担ぐらいじゃないかな、デズモンド君がかけた迷惑は。衛生兵としては間違いなく英雄的な活躍をしたのは確かだし、結局デズモンド君を衛生兵として従軍すること許したUS陸軍も、日本人的にはあり得なくても、欧米的価値観、というよりキリスト教的価値観?においては、まあ美しいんでしょうな、と理解することとした。この余裕が、戦勝国なんですかねえ……。

 というわけで、わたしとしてはこの物語を理解するのが結構難しかったわけだが、役者陣の熱演は大変素晴らしく、その点は手放しで称賛したい。まず、主人公デズモンド君を演じたAndrew君は、前作『Silence』に続いて受難な役柄を見事に演じ切っていたと思う。ただ、わたしはキャラとしては好きになれないかなあ……何というか……いつもへらへらと薄ら笑いを浮かべてるのが気に入らないんすよね……ニヤつくのはやめろ!とわたしが上官だったら言うと思う。あのニヤついたツラは演出なんだろな……きっと。わたしにはちょっとアレっすね……。
 あと二人、わたしの印象に残った役者を紹介しておこう。まず、デズモンドの父を演じたHugo Weaving氏である。『The Matrix』シリーズのエージェント・スミスや『The Lord of the Rings』シリーズのエルロンド様でもお馴染みのHugo氏だが、今回も非常にシブくてカッコ良かった。とりわけ、1次大戦での体験から、もう決して軍とはかかわりを持たないと決めていたのに、息子のためにかつての軍服を着用して行動するシーンは、それまで飲んだくれのダメオヤジなのかと思わせておきながら実に男らしかったすね。大変良かったと思います。
 もう一人は、『Avatar』の主人公ジェイクでお馴染みのSam Worthington氏だ。デズモンドの上官として、最初は、お前いい加減にしろよ、という態度だったのだが、だんだん、こ、こいつ本物のバカだ……だがそんなバカが一人ぐらいいてもいいか……みたいな感じで理解を示し、戦場ではデズモンドを信頼するに至るという流れはとても良かったし、その心境の変化が表情にも表れていたと思う。何気に名演でしたよ。カッコ良かったす。

 というわけで、どうもまとまらないし長いので、ぶった切りで結論。
 Mel Gibson氏の10年ぶり?となる監督作品『HACKSAW RIDGE』を早速観てきたのだが、そりゃあまあ、美しいと思いますよ、主人公の献身的な活躍は。でも、どうしてもわたしには、「納得」はできない、ような気がする。大体の理解はできるけれど、なんというか……他力本願というか自分勝手というか……うまく言えないけれど、あくまで自分の考えを押し通しただけで、別に戦争自体は否定していないし……でもその意志力がすげえ、ってことなんでしょうな。少なくとも、こうして偉そうに平和な日本でだらけた毎日を送るわたしにはできないことなので、それは素直に凄いというか、感動的であると思います。まあ、周りに恵まれていたってことなんだろうな。あ、最後に付け加えておくと、戦場シーンの迫力はすさまじいです。アカデミー録音賞と編集賞受賞は伊達じゃないす。以上。

↓ ちゃんと読んで勉強したくなりました。これを読めば、わたしの抱く謎(航空戦力のこととか)は答えが得られるのかもしれないすね。よし、買ってみるか。

 現代の世において、「宗教」というものについて真面目に考えるのは、それなりに意義深いことだとわたしは思うが、残念ながら情報の溢れるこの現代では、ほとんどの人が「宗教」というものにほぼ無関心であろうと思う。形骸化した宗教の残滓にかかわるぐらいしか、現代のわれわれは体験したことがないのが普通だろう。
 それはいい悪いの問題ではなく、単純に現代人には「宗教」にまつわる行為や思考に費やす時間がないのだから、まあ、実際のところ仕方がないと言えるのではなかろうか。かく言うわたしも、それほど深い信仰は持ち合わせていないし、おそらく平均的な日本人と比較すれば、ちょっとだけ深い、ぐらいの程度なので偉そうなことは全く言う資格はなかろうと思う。
 というわけで、今日観てきた映画は、江戸初期に日本へやってきた宣教師の目を通して、キリスト教における「神の沈黙」について、真正面から 取り上げた作品『沈黙―サイレンス―』である。原作は、狐狸庵先生でおなじみの遠藤周作氏。そして監督は、偉大なる名匠とうたわれるMartin Scorsese氏。わたしはこの作品を日本人監督では撮れなかったことがなんとも残念に思う。映画として、わたしは久しぶりに完璧だと感じたスーパー大傑作であった。

 はっきり言って上記予告はかなり出来が悪い。余計なナレーションが入っていたり、映像の編集も時系列が乱れている。ので、あまり参考にならないかもしれないことは一応一言言っておこう。以下、いつも通りネタバレ満載ですので、読む場合は自己責任でお願いします。
 さて。キリスト教における「神の沈黙」。それをごく簡単に普通にわかりやすく言うと、「どうして神様は助けてくれないの? なぜ黙っているの?」ということに尽きるのだろうと思う。本作で舞台となるのは、江戸初期のキリスト教が禁止されていた時代で、禁止どころか時には死罪にもあたるほど、激しい弾圧が加えられていた時代だ。まさしく島原の乱が起こって鎮圧され、鎖国が始まったころの話である。本作は、そんな時代に日本にやってきた宣教師が、日本人なら誰しも習う、「踏み絵」を踏めるかどうかの話だ。踏めば、自由の身、そして信者たちもおとがめなしで解放される。しかし断るならば、信者を殺す。そう突き付けられたときに、宣教師は「踏める」のかどうか。そしてそんなウルトラ大ピンチに、神はどうして何も言ってくれないのか。信者の命を見捨てることで保たれる信仰とは何なんだ、というのが本作のポイントであろう。
 おそらく、わたしを含め、キリスト教信者でない現代の日本人から見ると、もうさっさと踏んじゃえばいいじゃん、それでも心の中ではバーカって言ってりゃ済むじゃん。死んじゃあどうしようもないでしょ、と思うのではないかと思う。実際、登場する日本の武士階級の役人たちも、形式的でいいし、軽く、ちょっと踏むだけでいい、だから頼むから踏んでくれ、オレたちはお前が憎いんじゃないしお前たちを傷つけたくはないんだ、と頼み込む。それは、武士たちにとっては完全に法であり、政策であり、行政ルールだからだ。ごみは分別して出してくれ、と同じぐらいのレベルの話であろう。そして主人公たるロドリゴは、悩みに悩みまくる。
 おそらくこの状況は、登場する日本人武士の方が現代的であり、ロドリゴの方がプリミティヴというか原始的な思考だと言えそうな気がする。どうしてもわたしには、ロドリゴの苦悩が、本質的によく分からない。というのも、わたしは信仰とは心の持ちようであり、生きてこそ、だと思っているので、いかに心の中で、相手に対してクソ野郎だと持っていても、殺すと言われればその靴を余裕で舐めるにやぶさかでないからだ。そこに、神様助けて、と思うような感情は間違いなく発生しないし、クソ野郎の靴を舐める行為が神罰に値するとも思わないし、クソ野郎の靴を舐めたからと言って傷つくプライドも信仰心もないからだ。
 だからもし、ロドリゴが最後まで「踏まず」に、信者を見殺しにして「殉教者」として自らの死を願ったとしたら、わたしの目にはロドリゴは現代のイカれた狂信テロリストと全く同じに見えただろう。だが、ロドリゴは、ある種の決意をもって、「踏んだ」。そして信者を救うことを選んだ。この葛藤は、絶望によるものなのか、神との決別なのか、生への執着なのか、これは観た人それぞれの判断に任せられるポイントだろう。いずれにしても、神は沈黙したままである。神がおわすならば、だが。
 しかし、本作では、どうもやはり、当時のいわゆる隠れ切支丹のキリスト教信者たちも、若干の原始的な信じ方をしているようで、祈れば救われる、天国、パライソへ行けると本気で信じている節がある。そういう意味では来世を信じる仏教的な思想(と言っていいのかな?)とまじりあっているような気がするが、おそらくそれは、キリスト教を侵略の手段として利用しようとしていたヨーロッパの思惑も影響しているのだろう。その点は現代テロリストたちと意外と共通しているのではなかろうか。その意図に気づいたからこそ日本ではキリスト教が禁止されたともいえるわけで、そこに気が付いていないロドリゴたち宣教師は一番の被害者だったのかもしれない。とりわけ信長あたりは、宗教と政治の対立には痛い目に遭ってきた経験もあるわけで、そのカウンターとしてキリスト教を利用しようとした信長と、逆に脅威とみなして禁止した家康と、キリスト教にとっては対照的だが、実際やっていることは同じだったのではなかろうかとも思う。当時の宗教と政治は、日本だけでなく世界中で切り離せないものであったのはきっと確かだろう。それは現代でも、狂信テロリストを生み出す土壌でもあるし、ある意味宗教は道具として使われてしまっている面があるのは間違いなかろう。要するに人心掌握の手段というわけだ。
 そして、本作で一番理解するのが難しいのが、ロドリゴの葛藤よりもキチジローの行動の方だ。キチジローは、家族の前で「踏み」、村の信者の前でも「踏み」、おまけに金のためにロドリゴの居場所を密告したりもする。そしてその度にロドリゴに告解し、許しを求める。こうして書くと、とんでもない裏切り者の、まさしくユダ的人物のように聞こえるかもしれないが、どうしてもわたしには、その時のキチジローの脳裏には、おそらく全く何の悪意もないように見える。死にたくないから「踏む」。金が欲しいから密告する。だけどそんな自分に猛烈に心が痛む。だから助けて司祭様、という、実際のところ心に素直に従っているだけ、の純粋な野郎と言ってもよさそうである。そしてその、言ってみれば「生への純粋さ」のようなものに、ロドリゴは苦しめられる。コイツ、何なんだよ、と、ロドリゴには若干不信もあっただろうし。しかし、キチジローのそういったある意味ボン・ソバージュ的なところは、聖職者であるロドリゴにとっては、どうしても切り捨てることができなかったのだろう。なぜなら、人間誰だってキチジローなる部分を持っているからだ。わたしはキチジローに対して、とんでもねえ野郎だ、とか、そりゃそうなるよなあ、とか、頭に来たり共感したりと色々な感情をもって観ていたのだが、それを苦しみながらも抱え込もうとするロドリゴの姿には、これが聖職者というものであり、また、キリスト教的(というより正確にはカトリック的か?)な許し、なんだろうなあ、と思うに至った。最終的に、ロドリゴは棄教し、江戸で生涯を終えるわけだが、その死までに何度も私は棄教しました、的なことを書類で提出させられたんだそうだ。しかし、ラストで描かれたように、ロドリゴの心には常に神があったわけで、周りからは「転んだ」卑怯者的な扱いを受けても生き抜いたその姿は、やっぱり立派というか、わたしの胸にはとても響くものがあったのである。
 というわけで、そのロドリゴを熱演したAndrew Garfield君は大変素晴らしかったと思う。わたしにとって彼は、SPIDER-MANをぶち壊した野郎ではあるものの、彼に非は全くなく、監督と脚本がダメだっただけで、実際のところ彼は何気に演技派だし、今回の演技は本当に素晴らしかったとほめたたえたい。USではとっくに公開されているけど日本ではこれから公開される『Hacksaw Ridge』も期待してます。
 また、同僚司祭として一緒に日本にやってきたガルペを演じたのが、宇宙一の親不孝者カイロ・レンでお馴染みのAdam Driver君。いつもの汚い長髪&髭面と、相変わらずひょろ長い手足で不気味な男ですが、今回はAndrew君とともに、やはり素晴らしい芝居ぶりでありました。まあ、後半は出番がないのでアレですが、殉教シーンはグッと来たね。STAR WARS次回作ではさっさと善に戻ることを期待します。
 次。二人の司祭の師匠であり、日本で消息を絶った先輩司祭を演じたのが、我らが戦うお父さんことLiam Neeson氏。この人はやっぱり師匠的な役が似合いますね。終盤登場してロドリゴと再会するシーンの問答は静かなシーンなのにすごい熱量でした。あそこも見どころの一つでしょうな。 
 そして日本人キャストも非常に素晴らしかった。キチジローを演じた 窪塚洋介氏、通詞を演じた浅野忠信氏ともに非常な熱演だったし、とりわけわたしは井上筑後守を演じたイッセー尾形氏の芝居が非常に印象に残った。どうやら、原作においては、通詞も井上筑後守も、もとは切支丹で棄教した男、という設定らしいですね。その設定は映画では触れられずであったけれど、そこも描いたらもっと深く感動があったのではないかと言う気がします。それから、可哀想な運命をたどる信者の女子を演じた小松菜奈嬢も大変可憐でしたなあ。芝居ぶりも大変素晴らしく、失礼ながらちょっと驚きました。
 あと、どうでもいいことだけれど、とにかく、役者の着る服、汚れたメイクなど、映像の質感もさすがのハリウッドクオリティで、まあ、ほぼ台湾ロケだったそうなので、風景や村の様子などは若干日本ぽくはないような気もするけれど、 日本映画ではこうはいかなかっただろうなと思う。予算規模も全然違うだろうしね。
 ところで、最後に語られる、「この国にはキリスト教は根付かない」。なぜならこの国は沼地だからだ、という話はどうなんだろう。あれは、要するにまだ日本は戦国を経て江戸幕府という政治形態が生まれたばかりであり、ぐちゃぐちゃだということを意味しているのか、それとも、日本という国の精神性・文化的歴史を沼地と例えたということなのか。このことについては、わたしはまだ理解は出来ていない。この解釈は難しいなあ……わからん……泥の沼……うーん……これを理解するには、原作小説を読むべきかもしれないな……。

 というわけで、キレが悪いですがもう長いので結論。
 Martin Scorsese監督による、遠藤周作先生原作の『沈黙―サイレンス―』は非常なる傑作だと思う。脚本・撮影・演技ともに素晴らしく、パーフェクトとわたしとしては激賞したい。まあ、なんでも神に頼っても、神は 沈黙でしか答えてくれないわけで、やはり自分自身の心のありようが信仰の最も核になるのだろうと思う。なんでも神任せにしたら、イカれた狂信テロリストと同じだもんね。そしてなんといっても、生きてこそ、なんでしょうな。そして、信仰の自由が一応認められている現代は、やっぱり少しは人類は進化したと言っていいのかもしれないすね。なんかどうもキレが悪いけど、以上。

↓ マジで読むしかないような気がします。
沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作
新潮社
1981-10-19
 

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