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 わたしは普段、あまりノンフィクションの本は読まない。ビジネス系の本は基本的に知ってるよということが多いし、自己啓発系の本を読むほど他人の生き方に興味はないし、時事系の本はインターネッツという銀河で事足りるし、というわけなのだが、それでもたまに、ちょっと気になるな、という本に出会うことがある。
 そして先日、本屋さんでなんか面白そうな本はねえかなあ、と渉猟している時に、はたと目が止まった本があった。その時は結局買わなかったのだが、その後電子書籍でも買えることが判明し、ま、ちょっと読んでみるか、と買ったのが、ちくま新書から発行されている『たたかう植物―仁義なき生存戦略』という本である。ちくま新書なんて買うのは初めてだ。

 なんでまた、この本を買ったかというと、上記の書影では小さくて読めないけれど、実は表1に、本書の内容を紹介する以下のような文章が書いてあり、それを読んで、なんか非常に興味がわいたのである。引用すると――
 ――植物たちの世界は、争いのない平和な世界であるように見えるかも知れない。しかし、本当にそうだろうか。こんなことを言ってしまうのはずいぶん無粋かも知れないが、残念ながらそんなことはまるでない。自然界は弱肉強食、適者生存の世の中である。それは植物の世界であっても何一つ変わらないのである
 わたしは、この文章を読んで、どういうわけか真っ先に、吉良吉影のことを思い出した。吉良吉影とは、JOJO第4部に登場する殺人鬼で、「激しい喜びはいらない…そのかわり深い絶望もない……「植物の心」のような人生を…そんな平穏な生活こそわたしの目標」としていて、高い能力を隠して平凡な人間であるように見せかけて、人殺しを重ねて生きてきた悪党である。
 なので、わたしは上記の本書の内容を読んだときに、こりゃあ、吉良吉影はこの本を読むべきだったな……植物の世界は決して平穏じゃねーみてえだぜ!? と思ったのである。

 というわけで、さっそく読んだ。
 結論から言うと、かなり面白知識が満載で、大変楽しめた。が、ちょっと……なんというか、メリハリがなく平板で、あっという間に読み終えることができるものの、なんとなく後に残らないというか、もうチョイ、各章ごとにまとめをつけるとかした方が、読者の印象に残る本になるのではないかという気がした。あまりにすらーーーっと山も落ちもなく、とにかく淡々と進むので、どうも記憶に残りにくいというか……ノンフィクションってこういうものだったっけ? これが当たり前、なのかな?

 まあ、いずれにせよ、内容自体は大変面白かったので、わたしがこの本で得た面白知識をいくつか紹介しよう。いや、あれだな、本書の章立てごとに、軽くまとめというかコメントを付すことにしようかな。
 【第1ラウンド:植物VS植物】
 章タイトルが「第●ラウンド」とかいう時点で、筆者のノリが分かると思う。基本的に本書は、植物VS●●という形式で、植物がいかに●●と戦うか、その戦略と歴史について書かれている。
 で、この第1ラウンドの対戦相手は、まさしく同族の「植物」である。光・水・土を植物同士が激しく奪い合っているわけで、その戦いの様相が、筆者の、やけに冷静だけど、その実やけに熱い、妙な語り口で語られていく。この筆者である稲垣氏はどうやらわたしと同年代っぽいが、かなり面白い人だとお見受けした。このラウンドでわたしが一番へえ~と思った面白知識は、一番最後に語られる「セイタカアワダチソウ」の話で、要するにセイタカアワダチソウは、化学物質=毒、を周りに散布することで、ライバルの植物を駆逐するらしいのだが(=そういう化学物質でほかの植物の成長を阻害することを「アレロパシー」というそうで、多かれ少なかれほとんどの植物が持っているそうだ)、その戦いに勝利して、戦う相手がいなくなると、自らの毒で自らがダメージを受けてしまうんだそうだ。それゆえ、何十年か前までは、空き地にあれほど勢力を誇っていたセイタカアワダチソウが、ほかの植物を駆逐して、圧勝を遂げた後で、自滅し、今でははあまり見かけられなくなっちゃったんですって。確かに。確かに最近はあまり見かけないすね。つーか、今はもう空き地自体あまり見かけないけど。いずれにせよ、へえ~である。
 【第2ラウンド:植物VS環境】
 このラウンドの対戦相手は、環境、である。植物同士の競争から、「戦わない選択」をした場合、水のないところや光の当たらないところなど、競争相手の植物がいないところに生きる場を見出す植物がいて、そういった場合、如何にして厳しい環境と戦うか、という話である。ここでは、C/S/Rという3つの観点から植物は戦略を立てている、という話が興味深かった。
 C=Competitiv=競争型=強い植物の採る戦略。これはまあ普通の戦略で、VS植物戦での戦略
 S=Stress Tolerance=ストレス耐性型=弱い植物の採る戦略で、乏しい水や光でも生き抜くぜと決心して進化した、じっと我慢型。サボテンがその典型だそうで、彼は我慢の子なので、ほかの強い植物がいない、過酷な地に根を下ろすことにしたんだそうだ。そしてサボテンの棘と球体ボディは、乏しい水をかき集めるために進化したフォルムなんですって。おまけにサボテンはC4回路という特別な光合成システムを持っていて、二酸化炭素を圧縮するそうで、まさしくターボエンジンと似た仕組みなんだそうだ。さらには、吸気と排気を行う器官をそれぞれ別にもつ、ツインカム仕様なんですと。面白いですなあ! ツインカムターボですよ。
 R=Ruderal=ルデラル型(=荒地植物型)=雑草がこれに当たるそうで、要するに、ほかの強い植物が力を発揮できないところで繁殖するタイプのことらしい。分かりにくいけれど、例えば人間の歩くような場所だったり、畑のようなすぐに引っこ抜かれちゃうような、条件の悪いところに住み着く連中のことらしい。中には、人間に踏んづけられることを想定して、人の靴にくっつきやすいように種子がべたべた成分でおおわれていたりもするそうで、雑草はあくまで「VS植物」戦には弱いけれど、実は大変強靭な連中だ、ということが著者の熱い語りでしれっと書かれています。へえ~。これまたおもろいすな。
 【第3ラウンド:植物VS病原菌】
 このラウンドの対戦相手は病原菌である。まあ要するに、植物はまったく目に見えないミクロの世界で病原菌と戦っていて、すべての植物は抗菌物質を身に付けているんだそうだ。人間が使う抗菌スプレーや抗菌グッズはたいていが植物由来なんですってよ。お茶のカテキンなんかも、元々は対病原菌のためにお茶が開発・運用している物質なんだそうだ。へえ~。このラウンドで一番面白いのが、「酸素」のお話だろう。もともと酸素は、光合成による「廃棄物」だったのだけれど、まあそのおかげでオゾン層が出来て紫外線が遮断され、生物が進化していったわけですが、なんと植物は活性酸素まで創り上げ、それで菌と戦うらしいんだな。おまけに!この後がミソなんですが、活性酸素は植物自身にとっても猛毒で、それを除去するために、抗酸化物質を作るようになったんですと。抗酸化物質といえば、ポリフェノールなんかがお馴染みですな。他にも、自爆作戦というのもあって、病原菌というのは、取り付いた細胞が生きてないと自分も生きられないわけで、病原菌が侵入した細胞は自ら「自殺」するんですって。こういう現象は勿論生物全般にあるようで、Apotosysと呼ばれる現象だそうだ。さらに、毒を生成するにも、成長するためのエネルギーコストを割かなくてはいけないので、植物自信が毒を生成するのではなく、自ら毒を作る菌を植物体内に住まわせている奴までいたり、実に面白い。まったくもってへえ~、である。そういう自分の中に住まわせている微生物は「エンドファイト」というんだそうだ。エンド=「中」ファイト=「植物」というギリシャ語ですってよ。ミトコンドリアや葉緑体という、細胞内の器官(?)も、元々は外の別のバクテリアが、細胞内に共生するようになったんだって。もう、なんどへえ~と言っても言い足りないすわ。
 【第4ラウンド:植物VS昆虫】
 このラウンドの対戦相手は昆虫である。まあ、要するに植物は葉っぱを食べられたくない、けど昆虫は食べたい、という関係なわけですが、このラウンドは、どちらかというと昆虫を受粉のために利用する植物の涙ぐましい努力が描かれている。蜜をあげるから寄っといで!みたいな。まあ、そこにも植物と昆虫の騙し合いがあったり、さまざまなドラマがあるわけですが、わたしが一番面白かったのは、昆虫の中には、特定の葉っぱしか食べない偏食家な奴らが結構いるじゃあないですか? その背後には、食べられたくない植物と、食べたい昆虫の壮絶な毒殺合戦の歴史があって、どんどんそれがエスカレートして、その葉っぱしか食べられなくなっちゃった、ということなんですってよ。へええ~。面白いなあ!
 【第5ラウンド:植物VS動物】
 このラウンドの対戦相手は動物で、まあ要するに、種を拡散したい植物が、いかにして動物を利用しているか、というお話で、これまた大変興味深い。このラウンドでわたしが一番、な、なんだって――!?と驚いたのが、恐竜絶滅の一要因ではないか、というとある説だ。それは、植物にとっては、やっぱり葉っぱをむしゃむしゃ食べられてしまうと困るわけで、ここでも植物は毒をメイン武器として戦うわけですが、「アルカロイド」という毒成分による中毒死が恐竜を絶滅に追いやった可能性があるそうです。へえ~。
 【第6ラウンド:植物VS人間】
 最終ラウンドの対戦相手は我々人間です。我々人間は、VS動物戦でせっかく植物が用意した毒(=例えばニコチンとか)もわざわざ平気で摂取するし、せっかく種を運んでもらうために用意した果実も、身だけ喰って種なんて捨てちゃうしで、植物からすると、人間は全く理解不能な謎生物なんですって。笑えるというか、なるほど、である。そもそも、苦みや辛みは、動物に対しては、「オレを喰ってもマズいぜ」という植物からのメッセージなのに、人間は、だがそれがいい、という始末。まったくやってられんわ、ということらしい。ちなみに子供が野菜が嫌いなのは、生物的に自然なんですってよ。なるほどねえ~。

 はっ!? いっけねえ! 調子に乗って書きすぎた。
 最後に、あとがきに記されている、なかなか印象深いことをまとめて終わりにしよう。
 自然界は弱肉強食であり、適者生存であり、そこにはルールも道徳心も全くない、殺伐とした殺し合いであることは間違いないわけだが、どうも、植物というのは、適者生存、というよりも、「適者共存」を目指しているように著者は感じるらしい。即ち敵を利用してはいるけれど、共に生きる道を選んだということで、それは言いようによっては狡賢いのかもしれないけれど、まさしく「与えよ、さらば与えられん」なわけです。イエス様が地上に現れるよりもはるか以前に、植物はその境地に至っていたというのが感動的だと、そういうことらしい。そして、「適者共存」を許さず、そもそもは植物が酸素を排出してできた地球環境なのに、あくまで適者生存を貫いて、ほかの種を殲滅しまくっているのは人類だけじゃねだろうか、というのが著者の想いだそうだ。
 なるほど、それはかなり深い話というか、面白い視点ですなあ。まあ、なんというか、人間は自然を克服してしまう未来がきっとやって来てしまうわけで、そんな圧勝状態になった時、セイタカアワダチソウのように自らの行いで勢いがなくなっちゃうかもしれないすね。いやはや、ほんと面白い本でありました。

 というわけで、もういい加減結論。
 本書『たたかう植物―仁義なき生存戦略』 には、まだまだ今回書き切れなかった面白知識満載です。ふと、なんか読む本がないなー、と思った時には、ちょっと本書を手に取ってみると面白いかもしれません。わたしとしては、熱烈にはお勧めしないけれど、わたし自身は超楽しめました。おもろいわホント。著者の語り口が結構笑えます。以上。

↓ この著者の稲垣先生は雑草に絡めたいろんな本を出してますね。たとえばこんなの。

 わたしは友達が少ないことでお馴染みだが、そんなわたしにも、一応友と呼べる男は少ないながらもおり、K氏はわたしが最も信頼する男の一人である。
 彼は、晴れやかなイケメン野郎で、アメリカ映画で例えると、わたしはギーグでモテないブサイク野郎であるのに対し、K氏はもう完全にアメフト部のキャプテンと言ってよかろう。ねたみ・そねみを自らに抱えるクソ野郎のわたしからすれば、実にけしからん男だが、どういうわけか気の合うナイスガイである。あまつさえ、超美人のCAの妻を持ち、息子もまたイケメン君でしかも賢く、この春から有名私立中学に通う、絵にかいたような幸せ満点家族である。もちろん、友とはいえ、その内情は知る由もなく、幸せの中にもそりゃあいろんな苦労があることは想像に難くはないが、外面的には非の打ちどころのない、スーパーリア充野郎である。
 そんなK氏とわたしは、いつも、仕事に全く関係ない、どうでもいいことを楽しく語り合い、完全に男子高校生の日常的な会話ばかりするのだが、毎週、週刊少年チャンピオンやヤングマガジンの巻頭グラビアを見分し、グラビア品評会が開催されるのも日常の一コマである。ほう、この娘はいいですな、うむ、この寄せて作り上げた谷間には夢があふれておりますな、ははあ、これは相当なPhotoShop職人の努力の跡が見るのう、おお、このポージングはなかなか分かっておるわ、というような、縁側で日向ぼっこをしているおじいちゃんめいた口調で、男子高校生のような内容をアホみたいに話すのが我々のグラビア品評会の光景である。
 そして、そんな我々にとって、ちょっと特別な位置に属している女性がいる。
 その名を「壇蜜」と言い、年齢は既に30半ばの女子である。しかし、我々にとって30半ばなんてものは十分にうら若き女子であり、まったくもってストライクゾーンど真ん中である。 なので、どうも本人はいつも「わたしなんて……」と年齢を気にしている風な発言をされているようにお見受けするが、我々的には壇蜜さん、通称みっちゃんは、アリ、であって、そのシュッとしたたたずまいと、素晴らしいBODYに我々二人のおっさんはメロメロなのである。また、わたしは多分に「声フェチ」でもあり、みっちゃんの声が大好きだ。なんか、特徴ある声っすよね。最高です。
 そんな特別な存在のみっちゃんこと壇蜜さんだが、実は数年前、わたしとK氏は偶然生身のみっちゃんを目撃したことがあった。わたしとK氏が打ち合わせに向かって歩いていた時、前方からみっちゃんが歩いてくる場に遭遇したのだ。わたしは常に360度センサーをオンにして哨戒状態にあるし、視力もいいので、わたしは約20メートル前から気が付いた。あれ? 何あの女子。超可愛いじゃん。つか、オイちょっと待って!!? あれってまさか、まさか!?  げええええーーーー!! み、みっちゃんだ!! 本物だ!!! とわたしは大興奮し、隣を歩くK氏に、(ねえ、あれ!!  あれ!! みっちゃんじゃね!?) と超・合図したのだがK氏が気づいたのはすれ違う直前で、わたしはもうとっくに気づいてみっちゃんをガン見しながら、漂ってくる超・いい香りに脳が侵され、ある意味イッちゃっていたのだが、すれ違いざま、思わずK氏と顔を見合わせ、二人で超・ナイス笑顔で、(みっちゃんだ!!!)と囁き合い、以降、長らくみっちゃんこと壇蜜さんは我々おっさんの心の偶像(IDOL)なのである。いやー、すげえいい香りで、ちょっとちびっ子で、超華奢で、すさまじく可愛かったことを今でも覚えている。みっちゃん……最高です。
 さて。なんでまたこんなどうでもいい話をしたかというと、先日、とある書籍を買って読み、非常に感銘を受けたからである。わたしが買って読んでみた書籍とは、これです。
どうしよう
壇 蜜
マガジンハウス
2016-02-18

 お、発売時のサイン会?の動画があったから貼っとくか。

 この本を買ったきっかけは、まったくの偶然で、先日本屋さんで偶然見かけ、へえ? と思って手に取り、ちょっとだけ立ち読みしてみたところ面白そうだったので、気になり、その場では買わなかったものの、気になって調べたら電子書籍版も販売していて、ううむ……えいっ!! とポチってみたわけである。よく考えると、タレントのエッセイを買うのは初めてかもしれない。しかし、内容は大変面白く、また、みっちゃんは文章がかなり上手で大変感銘を受けるに至ったのである。ははあ、やはりみっちゃんは、言葉を大切にしている人なんだな、というのが非常に感じられる文章であった。
 また、50本のショートエッセイから成る本書は、各エピソードがことごとく同じ分量なので、これはきっとどこかの雑誌連載コラムを一冊にまとめたものなんだろうな、と勝手に想像していたが、なんとこれはすべて書き下ろしだそうである。この事実にわたしはかなり驚いた。ここまで各エピソードを決まった分量で書くことは、かなり技術的にも難しいことだと思う。素直に、すげえ、これは明らかに努力の人なんだなあ、とますますみっちゃんが好きになった。
 で、肝心の内容である。すべて、彼女が常々思っていることや、遭遇した出来事についての飾らない心情を書き綴ったもので、意外とテーマは幅広い。様々な場面における「どうしよう」といった出来事について書かれているわけだが、そこにはみっちゃんのこれまでの生き方(その由来含む)や、これからの生き方が明確に映し出されていて、彼女の性格が非常に良く表れているように思う。もちろん、話したことのない、永遠の偶像(IDOL)なので、これも当然わたしの妄想に過ぎないのだが、壇蜜こと斎藤支静加という一人の女性は、どうやら、いたって真面目な人間であるらしいことは良くわかった。以下に、わたしが本書を読んで、へえ~と思ったり、そうなんだ、と知ったことをいくつかまとめてみよう。
 ■壇蜜≒斎藤支静加ということ。
 まあ、当たり前かもしれないが、我々が知るタレントの壇蜜さんと、現世に生きる人間である斎藤支静加さんは、似て非なる別人格なんだな、ということが随所で感じられる。もちろんベースは共通しているのは当たり前だが、タレントとしての「壇蜜」という存在は、かなり人工的な存在であるらしい。それは要するに「壇蜜」に求められるものを体現する努力をしているという意味なのだが、それは極めて冷静な視点から作り上げられた姿らしい。ただ、現在はどうやらかなりそれが重なって来て、人工的なイメージに合わせた「壇蜜」という存在と、素の斎藤支静加という人間の同化が静かに進行中であるようだ。どうやら、もはや「壇蜜」としての過去のイメージを消すことはできないと自覚しているものの、もっと楽に、自然に在る「壇蜜」でいる方向性を選んでいるように感じられた。だから、両者の同化は、「壇蜜」の否定ではなく、一方的に壇蜜を消して元の斉藤支静加に取り込まれるものではない。0:10ではなくて、5:5なのかわからないけど、とにかくちょうどいい塩梅に融合して行っているという感じなのではないかとわたしは感じた。
 ■モノを持たないということ。
 どうも、この本の中で何度か出てくる話なのだが、みっちゃんは、とにかくモノを持たない、捨てる女なんだそうだ。一人っ子であり、女子高育ちの彼女は、基本的な人格形成において、かなり厳格な環境にあったそうだが、それまでは彼女は何でもとっておく傾向のほうが強かったものの、30代になって初めて一人暮らしを経験してからは、捨てることを生活方針と定め、それはもはや宗教的な敬虔さを持って、意識的に、バンバン捨てる、そしてシンプルな、整然と片付けられた部屋に暮らすことを旨としているそうである。へえ~、である。そして、どうも、そういった彼女の生活スタイルは、物質としてのモノだけでなく、精神的な「思い」すらも捨てて生きようとしているようにわたしには思えた。つまり、執着しない、ということなのだが、年齢を経ていろいろなことに対して柔軟に、そして、それでいて、ブレない芯を持った生き方を真摯に追求しているわけで、みっちゃんの凛とした姿はそういう内面の表れなんだろうな、と思うに至った。やっぱり、ちょうどいい感じにやわらかく、きちんと芯を持っているのがいい女なんでしょうな。
 ■だって、にんげんだもの。
 みっちゃんは、本書でいろいろなことを告白し、自分の生き方をさらけ出している。だが、全部それを実践できているかというと、そりゃあそんなこともないわけで、結構頻繁に、自分でツッコミを入れている。「とはいえ、●●なんですけどね」と、こうありたいという姿と、現実のギャップを、若干の恥じらいと自虐をこめて結ぶ話が多い。そりゃあ、だって、にんげんだもの。しょうがないというか、そうなっちゃいますわな、と、読んでいてやや安心するというか、そういった柔らかさもまた読んでいて心地いい。

 とまあ、書き出すときりがないのでこの辺にしておくけれど、みっちゃんはその過激な露出グラビアや、一面だけを切り取って報道される言動からは、だいぶかけ離れた一人の、おとなしい、真面目な女子であることが、この本を読むと良く分かる。もちろん、みっちゃんのすべてを肯定するわけではないし、それはどうなんだろう、と思うようなことももちろんある。けれど、みっちゃんの素直な心根は、大変好ましいというか、きっとわたしは、ええーーーと思うことがあっても、まあいっか、と許してしまうような気がする。
 ただ、本書で残念なことが一つだけある。それは、常にクールなみっちゃんは、一体何に、何をしている時に、一番テンションが上がるのだろう? みっちゃんが、浮かれて、ふわーーい!! と喜んでいる様が観てみたい。それがどんな時なのかが書かれていないような気がするのが、わたし的にちょっと残念である。女子はですね、やっぱり、笑顔が一番っすよ。みっちゃんはどんな時に、どんなものに一番喜びを爆発させるのか、それが知りたいわたしであった。

 というわけで、結論。
 壇蜜さんのことをわたしは勝手にみっちゃんと呼んでいるが、何らかの宇宙的な奇跡が顕現し、みっちゃんと話す機会があったなら、わたしは迷わず、大ファンです、と告げるだろう。まあ、そんな奇跡は起きないから奇跡と呼ばれるわけだが。はーーー……。とりあえず、わたしとしては、この本を読んで、ますますみっちゃんが好きになりました。以上。

↓ K氏には友情の証として、この写真集を差し上げました。まだ持ってるかな?

 今回取り上げる本は2つ。
 一つは、『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』。角川書店発行の極めて面白い良書で、単行本が2012年に出た当時、読んでみたらすげえ面白く、今年になって文庫になったので再び読んでみたらやっぱり面白かった。思わず電子書籍版も買ってしまったほど、この本は面白い。
 もう一つは『人工知能 人類最悪にして最後の発明』。今年の6月にダイヤモンド社から出たばかりの本で、先日、わたしが愛してやまない電子書籍ストアBOOK☆WALKERにて、コイン増量キャンペーンで何買おうか探してた時にちょっと気になって購入した。結論から言えばくそつまらないうんこ本で、リアルの紙の本だったら即資源ゴミの日にサヨナラ確定だが、残念ながら電子書籍で購入したので、文字通りケツ拭く紙にもなりゃしない、トンデモ本だった。

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか (角川文庫)
NHKスペシャル取材班
KADOKAWA/角川書店
2014-03-25


人工知能 人類最悪にして最後の発明
ジェイムズ・バラット
ダイヤモンド社
2015-06-19


 まずは、『ヒューマン』から。
 この本は、ちょっと調べてもらえばすぐわかる通り、実はNHKスペシャルで放送された番組本だ。なので、著者表記は「NHKスペシャル取材班」となっている。この本があまりに面白くて、放送を見ていなかったわたしは、オンデマンドで超期待しながら見たのだが……正直、放送ではかなりバックグラウンドストーリーが端折られているというか、伝わり切れず、断然本を読んだ方が面白いことが判明した。
 この本を読んで、わたしが初めて知って、マジか、へえ~、そうなんだ、えーー、なるほどねえ~……などと思った、面白知識をいくつか列挙してみよう。

 ■遺伝子が99%一致するチンパンジーと我々ホモ・サピエンスの違いはどこにあるのか?
 端的に言うと、どうやら「未来を想像できる能力」がホモ・サピエンスには備わっている点が決定的に違うらしい。これは、脳の容量の違いがもたらしたものなのかもしれないが、事実として、チンパンジーは「瞬間記憶」が非常に発達していて、パッと見たものを一瞬で記憶できるらしいのだが、それはチンパンジーが、今この瞬間だけを生きているから発達した能力らしい。今しか生きてないから瞬間記憶が発達したのか、瞬間記憶能力があったから、今しか生きられないのか、どっちが先か良くわからんけど、そういう事らしい。
 紹介されている実験エピソードによれば、チンパンジーは、我々と同じように、「助け合う」行動をとることがあるんだそうだ。ただし、それには条件があって、例えばチンパンA君は、別のチンパンB君に、「ちょっとその棒を取ってくんない?」という意思表示をすることが必要で、それがあれば、B君は「あいよ」と渡してくれるらしい。
 が、しかしその何らかの意思表示がない限り絶対にチンパンジー同士でお互いを助けることはないんだそうだ。
 一方、我々ホモ・サピエンスは、意思表示がなくても、「あー、あの人困ってんなー。この棒があればいいんじゃね? はい、どうぞ。使えば?」と、「自主的に他者を助ける」ことができる。
 この違いは何なのか。
 この本によれば、要するに我々は、「他者を助けることで、のちのち自分も助けてもらえるかもしれない。他者の利益は自分の利益になりうるかも」という未来を想像できるから、他人を助けるんだそうだ。まさしく「情けは人の為ならず」ってやつが、我々を人間足らしめている要因の一つらしい。へえー。マジか。なるほど、そうかも。って思うよね。この話に至るまでのストーリーが非常に明快で、実に面白い。
 
 ■我々ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の運命を分けた鍵は何だったのか?
 誰もが知る通り、我々ホモ・サピエンスは、現存している人類の最終勝利者で、実は我々よりも前に発生しているネアンデルタール人や北京原人、ジャワ原人などの先行人類が存在していたにもかかわらず、彼らはすべてことごとく絶滅してしまった。なぜ、我々ホモ・サピエンスは最終勝利者になりえたのか。
 この本によると、どうやら我々は、物を「投げる」ことを偶然だか何かで発明したことが、大きく影響しているらしい。 「投げる」という行為は、残念ながら、既に主にヨーロッパ方面で繁栄していたネアンデルタール人にはできない芸当だったらしいのだ。それには骨格上の問題や、それまでの生活習慣が影響していて、寒冷地であるヨーロッパに定住していたネアンデルタール人は、その気候に対応すべく、毛深くなったり、筋肉量も増加して、一言でいえばゴッツイ身体つきに進化していった。なんでも、もし今、ネアンデルタール人がいれば、余裕でオリンピックメダリストになりえた身体能力を備えていたらしい。そして、主に狩猟による生活だったのだが、獲物もマンモスなどの大型獣を団体で狩っていたようだ。その武器は、棒や槍めいたもので、基本的に、体力にモノをいわせた、殴る・刺すという近接戦闘しかありえなかったそうである。 
 しかし、やがて氷河期が訪れ、獲物も少なくなり、獲物も彼らもどんどん南下して、イタリアやスペインといった地中海方面や、あるいはトルコやシリア・イラク方面に住処を移動していくことになる。
 面白いのは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは、同時期に生きている時期があって、確実に、今のイラク・シリアあたりで出会っているんだそうだ。接触があったのは間違いないという証拠も出土している。その時のホモ・サピエンスは、まだ出アフリカを果たしたばかりのルーキー人類で、お互い、「なんだあいつら。変な生き物だなー」と思ってたはずだとこの本には書かれている。おそらくは、基本的には不干渉の状態であっただろうが、交配があった可能性もあるし、獲物として食われていたこともありうるようだ。ただし、お互いを殺しあう戦争状態にはなかったようだ。
 つまり、ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人を殺戮して絶滅させたわけじゃない。いわばネアンデルタール人は環境変化に対応できず、勝手に絶滅したのだろう、ということらしい。
 その環境変化が、いわゆる氷河期だ。大型の獲物が減り、動きのすばしっこい小動物しかいなくなってしまった結果、殴る・刺すの攻撃しかできないネアンデルタール人は狩猟ができなくなってしまったわけだ。獲物が向かって来れば、タイミングを合わせてぶん殴れるかもしれない。けど、大キック・大パンチだけじゃ、ちょこまかと逃げ回るちっこいネズミとかウサギは獲れないのですよ。
 一方我々ホモ・サピエンスの場合はどうだったか。
 それを解くカギは、とある遺物から判明する。それは、ホモ・サピエンスの各地の遺跡から数多く発掘されていて、どうも共通した目的のための謎アイテムで、なんか、先っちょに引っ掛けるフック的なものがあって、少し湾曲してて、反対側は、握り部分なのか、ちょっと細くなってて、持ちやすくなっている。
 考古学者たちは考えた。一体こりゃなんだ、と。で、おそらく、どこかでこんなドラマが展開されたのだろうと想像する。
 「……おっと、君、まだいたのか」
 「アッハイ、どうしてもわかんねえんですよね……なんなんでしょ、これ。」
 「HAHAHA! そんなこと、2万年前に行かないとわかるものか! じゃ、わたしは
  これからB'sグリルで妻と食事なんで先に帰るよ」
 「アッハイ。お疲れっした―……なんなんだあのおやじ。……しっかしこれって……」
 と悩める若き研究者がいたんだろう。そして彼は、偶然発見する。
 「はーーー。この先っちょのフックがなあ……くっそうわかんねえ……おらよっ!
   いえーい! 命中!」
 と、フックにボールペンを引っ掛けて、ひょい、とぶん投げてみて、はたと気づく。
 「……まさかこれって……これだああああーーーー!!」
 ひらめいた彼は、B'sグリルへ車でぶっ飛ばす。そして、主任に興奮しながらこう伝えたに違いない。
 「主任ーーー!!」
 「な、なんだなんだ、どうしたんだお前!?」
 「わ、わかりました!! オレ、超わかっちゃいました!!」
 「だからいったい何の話を――」
 「これっすよ!! これは投擲具です。間違いないっす。槍を投げるためのアイテムっす!!」
 「はあ? 何言ってんだお前!?」
 「だから、こうやって使うんすよ!! ちょっと失礼! おらよッ!!」
 ズドーンと奥さんの顔のわきに突き刺さるフォーク。超ドヤ顔の若き研究者。シーンと静まり返る店内。
 「ね、わかったっしょ!? これ、投擲具に間違いないっす!!」
 「……(わなわな)……天才現る……それだ―――!!!」

 みたいな。
 まあ、これは100%わたしの妄想だが、要するに、物を投げることを発明(?)し、そのための道具まで開発していたわけで、このことにより、小型の獲物も狩ることができるようになって、氷河期を乗り越えられたらしいのである。これは、発掘された石器や動物の骨から、ほぼ確実だろうと証明されているようだ。

 というわけで、この本は、いちいち、こういう想像を駆り立てるエピソードが満載で、とにかく最後まで飽きさせない、素晴らしい本である。もうすでに、十分以上に長くなってしまったので、ホントはもっと紹介したい面白知識がいっぱいあるんだけど、本書の目次構成を紹介するに留めておこう。なお、わたしは、この本の話だけで5時間は熱く語る自信がある。とにかく面白い!!

 『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』 目次
 はじめに 心――この不可思議なもの
 第1章   協力する人・アフリカからの旅立ち ~分かち合う心の進化
 第2章   投げる人・グレートジャーニーの果てに ~飛び道具というパンドラの箱
 第3章   耕す人・農耕革命 ~未来を願う心
 第4章   交換する人・そしてお金が生まれた ~都市が生んだ欲望のゆくえ
 おわりに なぜいまヒューマンなのか

 おそらく、この本がこんなにも読みやすく、優れているのは、元々が映像コンテンツであることが深く影響しているのだと思う。つまり、TV番組だけに、視聴者を飽きさせないように「ストーリー」の骨組みがきっちりと組まれているのだ。このことは、小説であろうと、学術論文であろうと、あるいは日常の会話や、ビジネスでのプレゼンであろうと、きわめて重要なことだ。基本的に、「こいつ、何言ってんだかわからねえ」という話や文章は、ほぼ確実に、話している本人・書いている筆者も、自分の言いたいことが分からない状態にいると考えていいと思う。
 わたしは大学院で、学術論文を書く訓練をみっちりと、それはもううんざりするほど受けたが、伝えたいことを、きちんと順序良く、場合によっては興味をひくために先送りにしたり、説明の順番を変えたりして、骨組み=構成をしっかり設計しておくこと。いわゆる「起承転結」が文章やコミュニケーションにおいて一番重要だとわたしは思っている。それがこの本はきっちりとしているので、非常に優れた良書だとわたしは思うのである。
 しかも、内容面においても興味深いエピソードばかりであるし、それを綿密な取材を通して説得力を付加していることも、読み物としての完成度を深めている。
 
 で。
 一方の『人工知能 人類最悪にして最後の発明』。
 ……正直、もうどうでもよくなってきたが、文章としての構成やストーリーがまったくなっていない、というのがこの本をクソにしているのが一つ。
 もう一つは、やはり内容だ。あることを主張しようとして、「こいつ、何言ってんだかさっぱりわからねえ」と見做されてしまう奴が陥る典型的な症状だが、視野が狭く、自説を疑う事をしない。これってホントかな? と振り返らず、一直線に自分の主張を繰り返す。これもまた典型的なトンチキ野郎の症例の一つだ。
 言ってみれば、「やべえ! AI が人類を破滅に導くんだ! AI やべえ! スカイネットどころじゃねえ!」と、どこかの掲示板にしつこく書いているようなもので、「ははあ、こいつは重症だ」としか、残念ながら読者には伝わらない。実に、読んでいてイラつくというか、こいつ、ホントただのオタク野郎だな……としか思えない。視野が狭いというのは、わたしが最も嫌う「人間力の低さ」を表明するポイントの一つだ。実にうすっぺらい。

 とはいえ、だ。実はわたしも、こいつが繰り返し言う「AIが人類を滅ぼす説」にはおおむね同意見ではある。それは、いわゆる技術者と呼ばれる奴らには、「人間力が低い」連中がやたらと多いためだ。だから、わたしならこう言うだろう。「直接手を下すのはAIかもしれない。しかし、人類を滅ぼすのはAIを開発しているゴミ人間どもだ」、と。
 これまで、いろいろなシステム導入の際に、いろいろな技術者とよばれるSE連中と仕事をする機会があったが、ろくな奴がいなかったのは我が不幸だ。もちろん、全員じゃなかろうと信じたいし、そんなことないぜと反論されれば、まあ、そりゃそうでしょうな、と認めざるを得ないが、やはり、技術者やSEに限らず、現状の人類の中で圧倒的多数なのは、わたしが嫌悪する、視野の狭い「未来を想像」できない人々だ。
 思い出してほしい。我々とチンパンジーはどこが違うのかと言う話を。なんとも皮肉なことに、人類は科学技術を発展させる過程で、一番重要なものを失いかけているのかもしれない。目先だけしか考えない生物になりはてたとき、おそらく人類は滅びるのではないか。

 『ジュラシック・ワールド』に関するエントリで触れた、DNA工学博士の悪党の話は、まったくもってそこらじゅうにある。今や、たいていのサラリーマン、たいていの技術者が、自分が行っていることが、何をもたらすのか、その先を想像していない。しているんだろうけど、実に浅い。実に近視眼的だ。そういう、「人間力の低い」者たちが自らを破滅に導くAI を作ってしまい、人類を滅亡に追いやるのだろう。なので、結論としての『AI が人類を滅ぼす』という意見に、わたしも同意する。
 『人工知能』の著者が語るところによると、要するに、AI は目的のためならば何でもやるわけで、その手段の選択に人間的な、禁忌やためらいは存在せず、一瞬で最適(=おそらく最も効率がいい、というべきか)な手段をとるはずだ、そしてその選択は、人類にとって必ずしも幸福なものではないだろう、と主張している。まあ、そりゃそうでしょうな(なお、正確に言うと、この本の著者が主張しているのは、高度なAI を作るとそいつは自分で自分を進化させて、超AI になり、それが人類を滅ぼす、と言っている)。

 しかしもし、この著者が、あるいはAI 技術者たちが『ヒューマン』を読んでいて、人類を人類足らしめるものや、これまでの人類の進化の過程を少しでも勉強していれば、人類滅亡という未来は回避できるかもしれない! と思うはずなのに、実に残念だ。

 結局、AI は人間が生み出すものだ。もちろん、『Avengers:Age of Ultorn』で示されたように、いかな天才トニー・スタークであろうとも、思わぬものができてしまうかもしれない。だから、まずはAIを作る前に「人間」とは何か、という事を学んでほしいものだと、心から願うばかりである。
 ホント、技術者を名乗る奴には、とりわけろくな奴がいないというのは私の実感かつ偏見だ。……とあるクソ会社の代表取締役社長を務めるトンチキ小僧も、まずは『ヒューマン』を読んで勉強した方がいいと思う。あんた、絶望的に視野が狭いからな。王の器に非ずと思うよ。

 というわけで、おっそろしく長くなってしまったが、結論。
 『ヒューマン なぜヒトは人間になれたか』は非常に優れた良書であり、万人にお勧めしたい。
 そして『人工知能 人類最悪にして最後の発明』は……まあ、ご興味あればどうぞ。オラ知らね。


↓わたしはこの映画はかなり傑作だと思ってる。ハーレイ君の「一度も瞬きをしない」ロボットになり切った気合の入った演技は注目。
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2010-12-22


 












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