2年前、2016年の秋ごろに読んでみて、とても面白かった海外翻訳小説がある。一度死んでも、再び人生をリプレイしてやり直す男の、15回目の人生を描いた『The First Fifteen Lives of Harry August』(邦題:ハリー・オーガスト、15回目の人生)という作品だ。控えめに言ってもこの作品は超面白く、大傑作であるとわたしは認定しているのだが、この作品を書いたのは当時20代の女性で、なんでも10代で作家デビューしていて、そのペンネームも複数使い分けしているそうで、へえ、これはすげえ才能あるお方だなあ、とわたしは結構驚いたのである。
 そして先日、と言っても実は発売になったのは5月で、わたしが発売されていることに気が付いたのが先日、なだけなのだが、ともかく、Claire North先生の新刊の日本語訳が発売されていることに気が付き、うおっとマジかよ! 全然チェックしてなかった! 抜かってた! とあわてて買った本がある。それが、角川文庫から発売されている『TOUCH(日本語タイトル:接触)』であります。
接触 (角川文庫)
クレア・ノース
KADOKAWA
2018-05-25

 おっ、Claire先生自身のWebサイトに、BOOK-TRAILERが置いてあるので、とりあえず貼っておくか。この動画は、英語をよく聞くときちんと物語のあらすじというか、どういう物語なのか想像できるものなので、ちょっとチェックしてもらいたい。YouTubeの設定で字幕自動生成をオンにすると、英語が苦手な方でも大丈夫だと思うな。

 物語はこの動画のナレーションから想像できる(?できないか)通り、人の中に「ジャンプ」して、その人に憑りつき?、誰にでもなることが出来る謎の存在のお話で、まあ、実際のところ今までも似たような作品はいっぱいあると思う。そして本作だが、ズバリ、非常に回りくどくて分かりにくく、読み終わるのにかなり時間がかかってしまった。文庫版で608ページのところ、わたしは電子書籍の記録によれば545分かかったらしい。なんつうか、ちょっとずつ読んだことも悪かったんだろうな、読んでいて、ええと? と何度も前に戻ったりしてしまい、どうもスッキリ頭に入らない物語だったような気がする。
 恐らくその要因は、基本的な設定というよりも、前作『ハリー・オーガスト』でもみられた通り、かなり頻繁に時と場所が移り変わって、場面転換が激しいからではなかろうかと思う。前作では、わたしは別に混乱することなく、物語を楽しむことが出来たのだが……本作においては、明確な「現在」が設定されていて、一本筋が通った物語があるものの、とにかくコロコロと回想が始まってしまって、本筋の進行が遅いのが、わたしの足りない脳みそではついていけなかったのではなかろうか。メインの筋が進みだすのは中盤以降で、そこまで我慢できるかが本作を味わう上でのハードルになっているような気がします。
 さて。どうしようかな、最初に、物語についてまとめる前に、主人公たる「ケプラー」に関して、基本的な設定を短くまとめておこうかな。
 ◆「ジャンプ」能力
 人の肌に直接触ると、その人の体に「ジャンプ」することが出来て、その人の体を乗っ取れるという謎能力。そして乗っ取られた人は、その間の記憶がない。物語の中では、ほんの数秒だったり、数十年の間乗っ取られた状態が続いたような例も描かれている。
 ◆主人公「ケプラー」
 どうやら女性だった、らしい。「ケプラー」という名も、本名なのか不明。もう既に自らのオリジナルの体は消滅していて、自分の体を持っていない。そして正確にはよくわからないが、とにかくもう数100年以上も生きている、らしい。体がなくて「生きている」と言えるのか良くわからないが、これまで、男にも女にもジャンプしてきたので、もはや自分が女だったことすら記憶があいまい、だそうだ。わたしは読み始めた時、どっかにオリジナルBODYは寝てるのかな? と思ったら、もう既に体は持たない存在でした。なので、「ゴースト」と自分で称していて、人にジャンプすることを、その人の体を「着る」と表現している。つうか、まさしくこういう存在を「幽霊」というのではなかろうか。
 ◆実は「同類」が世界にいっぱいいる。
 どうやら、主人公ケプラー同様に、他人の体に「ジャンプ」出来る同類のゴーストが世界にはいっぱいいる。ケプラーが、あ、自分と同じようなゴーストがいるんだ、と初めて知ったのは18世紀、1798年のことらしい。そしてケプラーは、そういったゴーストに、乗っ取る体(=曰く「不動産」)を紹介するエージェント業をなりわいとしていた。乗っ取る体の素性をきちんと調べ上げておかないと、乗っ取ったはいいけど、(元の体の持ち主の記憶がなく、まさしく中身は別人になってしまうため)すぐに周りの人々に、なんか変だぞ?とバレたり、持病があったりするとマズいので、事前調査がとても重要で、ゴーストたちからすると重宝がられていた存在だそうだ。なるほど。そして、ゴーストと契約して、主に短時間だけ、体を貸す協力者もいる。
 ◆彼らを「狩る者たち」がいて、天敵のような存在に追われている
 どうも、ずっと昔から彼らゴーストという存在はごく一部に認識されており、ゴーストを狩る者たちがいて、闘争を繰り返している、らしい。
 とまあ、ごく基本的な設定は以上かな。
 わたしはこの設定がだんだんわかっていく中で、なんだか、あまり売れなかったけどわたし的には結構好きな映画『JUMPER』を思い出した。あの映画では、単に空間移動の「ジャンプ」だけだったけれど、彼らジャンパーを狩る謎の連中が出て来ましたよね。そういう意味で、なんか似てると思ったのだが、本作はそこに『ハリー・オーガスト』的な「永遠を生きる存在」というスパイスが加わっていて、ちょっとした変化球となっている。
 というわけで、物語は現代、トルコのイスタンブールから始まる。「わたし」たる主人公「ケブラー」が銃撃され、瀕死のところで別の人間ににジャンプする。その体にはもう「わたし」がいないことが分かっているのに、襲撃者は「わたし」が「着て」いた人間にとどめを刺す。一体なぜ、自分と、自分が着ていた人間は狙われたのか。その謎を解明すべく、自らを銃撃した男にジャンプして、ヨーロッパを横断する逃避行(?)ののち、真のラスボスとの対決へ、という流れであった。
 その逃避行及び追撃の中で、「わたし」が今までにどんな人間を「着て」、どんな歴史を歩んできたのか、あるいは、同類のゴーストにどんな奴がいたのかなどが語られるわけだが、ほぼ本筋には関係ないようなエピソードが結構面白いのです。
 例えば、時は19世紀末、「わたし」はロシアにいて、とある貴族から、素行の悪い娘の体を「着て」、令嬢らしくしとやかな娘を演じてくれないか、という依頼を受ける。依頼期間は半年間。そして「わたし」は、その依頼通り、娘の体で貴族の令嬢にふさわしくふるまうことで、それまでの周りの悪評を払拭し、半年を過ごす。そして体を返却した後、それまでの半年の記憶がない娘と貴族の父はーーーみたいなちょっとグッとくる話だったり、他にも、同類のゴーストが「不動産エージェント」としての「わたし」に、「一度マリリン・モンローになってみたい」という依頼を持ち掛けて来て、ハリウッドのスタジオ関係者となってモンローへのジャンプを手引きする話だったり(しかも依頼期間が過ぎてもモンローの体を返そうとしないので、ちょっと懲らしめてやったり)、とか、まあ、そういったゴーストならではの不思議で興味深いエピソードがいろいろ描かれている。ただ、くどいけど、そういった面白話はほぼ本筋と無関係です。そこが若干問題と言えば問題なのかもしれないな……。

 というわけで、物語は複雑だし、キャラクターも多いので、その辺りを細かく説明することはもうあきらめた。ので、もう思ったことだけを書くことにする。
 おそらく……前作の『ハリー・オーガスト』と本作において、共通しているのは「人生一度きりじゃない」という状況だろうと思う。特に本作は、永遠ともいえる生を、ずっと過ごしているわけで、「死」を超越してしまっている。もちろん『ハリー』においては「死」が「リセット」のスイッチとして存在していたし、本作でも死の間際に周りに誰もいなくてジャンプする体がなければ死んでしまうんだけど(死にそうになっても誰かの体に逃げて死を回避できる、けどその逃避先の体がなければどうにもできない)、主人公のわたしことケプラーは一度も死んでいない。実際のところ、自らの体はすでになく(その意味では死んでいる)、精神憑依体として在り続けているので、生きていると言えるのかわからんけど。
 そんな状況で、数百年在り続けているわけだが、果たして、人間はそんな孤独の数百年間、正気を保っていられるのだろうか?? 普通に生きる普通人の我々には、ちょっと想像がつかない世界だ。人生についてもはや絶望しているわたしには、生きるというある種の牢獄に、永遠に囚われるなんて、むしろ願い下げというか、ぞりゃもう拷問以外の何物でもないんじゃね? という気すらする。
 たぶん、その永遠を過ごすためには、何らかの明確な「目的」が必要なのではなかろうか? やるべきこと、と見据えたなにか。そういったものが絶対に必要なはずだ。『ハリー』では、その目的がきちんと描かれていて、それ故面白かったと思うのだが、残念ながら本作では、主人公が生き続けるための「目的」が、正直良くわからないんすよね……どういうことだったのか……何のために存在し続けていたのか……絶対、100年もいたら飽きると思うんだけどな……これは、ちゃんと書いてあったのに、わたしが集中できずスルーしちゃっただけかもしれないけど、その辺りの説得力がわたしには感じられなかったのが大変残念だ。
 なんつうか、やっぱり「人生1度きり」でないと、ダメなんじゃないすかね、人間は。永遠の時を生きられる、しかも肉体的には(誰かの体をかっぱらうことで)永遠に若いままでいられる、としたら、普通は喜ぶべきなのかなあ……? わたしはもう、絶対に嫌ですな。無理だよ。絶対に飽きるし、無間地獄とすら思えるすね、わたしには。ふと考えると、ゲームみたいすね。『バイオハザード』でも何でもいいんだけど、ゲームクリア(=目的達成)のために、何度死んでもオープニングに戻るのが前作『ハリー』だったけれど、今回はそのゲームクリア、目的が明確じゃなくて、なんだかやっぱり途中で飽きちゃうすな。本作は、最終的なエンディングは若干のほろ苦エンドで終わるけれど、はたしてケプラーは、その後何をして、何を求めて在り続けるのか。その辺がちょっと想像できないす。

 というわけで、もう長いのでぶった切りですが結論。
 2年前に読んでとても面白かった作品の著者Claire North先生の日本語で読める最新作『TOUCH』が発売されていたので、さっそく買って読んでみたところ、ズバリ言うと若干イマイチ、であったように思う。それは時と場所が入り組む複雑な構造に起因するというよりも、結局はキャラクターの問題ではなかろうか、というのがわたしの結論だ。わたしの浅い脳みそでは、主人公ケプラーに対してどうにも共感を得ることが出来なかった。それはケプラーに、生きる(存在する)意義というか、目的を見出すことが出来ず、どうしてまたコイツは数百年、正気を失わずにいたんだろうというのが実感としてよくわからなかったためではないかと思う。恐らくケプラーは、単に死ねないから存在し続けただけだし、死にたくない(=消えたくない)という、生命の根源的な衝動に従っていただけなんだろうと思う。わたしだって、散々この世に未練はねえなあ、とか思っていても、死の間際には、絶対に「死にたくない」とそれこそ生にしがみつこうとするのは間違いないだろうし。そういう意味では、まあ結局のところ「にんげんだもの」というみつお風な結論なんでしょうな。それが面白いかどうかは別として。はーーしっかし長かったわ……次は、1年ぶりの発売となったわたしの大好きな「グレイマン」シリーズ最新作を読んで、頭を空っぽにして楽しみたいと存じます。以上。

↓ こちらは超傑作です。
ハリー・オーガスト、15回目の人生 (角川文庫)
クレア・ノース
KADOKAWA/角川書店
2016-08-25

↓そしてこちらを次に読みます。電子書籍版は来週ぐらい発売かな……?
暗殺者の潜入〔上〕 (ハヤカワ文庫NV)
マーク・グリーニー
早川書房
2018-08-21

暗殺者の潜入〔下〕 (ハヤカワ文庫NV)
マーク・グリーニー
早川書房
2018-08-21