先日、インターネッツなる銀河をあてもなく逍遥している際、新潮社のサイトで、妙な告知を見た。曰く「≪担当編集者からお願い≫『すごい小説』刊行します。キャッチコピーを代わりに書いてください!」というもので、それを目にしたときは、アホかお前、自分の仕事を放棄するつもりか? と呆れたのだが、どうやらその小説を7/14~7/27の2週間限定で全文公開する(※まだ修正途中の原稿なので、校了したものではないらしい)ので、まずは読んでくれ、というものらしい。要するに、話題作りの一環であろうと思われる。炎上マーケティング、ではないけど、なんか近いものがあるような……。

 そしてその原稿は、各電子書籍サイトでも配布する、とあったので、わたしの愛用する電子書籍販売サイトでダウンロードし、とりあえず読んでみた。それが、『ルビンの壺が割れた』という作品である。


 まあ、ズバリページ数も少なく(わたしが読んだフォーマットで113ページ)、これで本当に全文なのか、良くわからないが、2時間かからずあっという間に読める。
 そして読み終わった感想としては、なるほど、という一言だけだ。
 ネタバレは絶対禁止のようなので、核心を突くことは書けないのだが、簡単に構造だけをメモしておくと、とある男女のメールのやり取りだけで構成されていて、地の文?のような、第三者目線の語り手はいない。お互いがお互いに宛てて書いたメールだけである。そしてどうやら二人は現在50代、Facebookで偶然、かつて結婚の約束をしていた女性を見つけた男が、一通のメール(メッセンジャー?)を送るところから始まるお話である。

 最後まで読めば、なーるほど、とすべてわかる仕掛けは確かにお見事で、大いに称賛したいと思う。
 しかし、わたしにはそれ以外の感想は特にない。新潮社社内では、「年に100冊小説読んでるけどここ5年で最も驚かされた作品」だとか、「大満足の読書体験をお約束します。この作品、売れる予感しかない!!」とか基本、大絶賛の方向だが、そんな(自分の会社の商品を絶賛しているという意味での)自画自賛には、しらけるというか、ふーん……としか思えないのだが……。
 わたしがふと思い出したのは、大学の文学史の授業で、フィクション小説の元祖は、18世紀の書簡体、あるいは日記体小説で、その頃はまだ散文において「物語る第三者」の概念が発明されておらず(この辺は記憶があやしい)、基本は一人称で、たとえばLaurence Sterneの『Sentimental Journey』なんかがその例だ、なんてことを習った記憶だ。それが正しいのかどうか、もうよく覚えていないが、まあ、手紙(≒メール)という形式の小説はある意味古典的で、別に珍しくはないものだ。
 書簡体小説――あるいはいっそ一人称小説、とひとくくりにしてもいいのかもしれないが――の特徴は、それはあくまで、それを書いている人自身の心情の吐露であり、ある意味一方通行であり、その結果、そこに書かれた相手の誰か、の心情は書き手によるまったくの想像にすぎず、事実あるいは真実とはズレがある、という点にあろうと思う。そしてそれ故に、別の誰かの手紙では、同じことがまったく別の一面をさらけ出すことになる、というのも定番コースだろう。まさしく、本作のタイトル「ルビンの壺」のように、「壺」以外の何物でもない、と思ってたら、別の人は「見つめあう二人」だと思ってた、というそのギャップが、読者たる我々に、な、なんだってーーー!?という驚きをもたらすわけで、基本中の基本ともいえるだろう。そういうパターンで、近年のわたし的ベスト作品は、やっぱり湊かなえ先生の『告白』じゃないかしら。ありゃちょっと違うか?
 とまあ、そういう意味で、本作『ルビンの壺が割れた』を読んだわたしも、その結末に、なーるほど、と思ったわけだが、それは、そういうことですか、という納得?であって、決して驚きではない。なので、それが面白かったかというと、まあ、わたしは年間に100冊は小説は読んでいないけれど、別にありがちだし、キャラクターに魅かれた点もないし、ふーん、という感想で終了、であった。
 じゃあ、なんでこんなBlog記事にしようと思ったのか。わたしも最初は書くつもりもなく、流そうとは思ったのだが……なんというか、要するにこういう商法が気に入らなかったんだろうな、きっと。そして、きっとこの本はそれなりに売れるだろうし、場合によっては映像化までされちゃうかもな、と思って、それに対するやっかみ?のようなものを感じたんだと思う。たぶん。つまり、わたしの心が狭く醜いということの証左に他ならないと認めます。
 
 しかし、やっぱり誰しも、Facebookで、元カレ・元カノ探しって、したことがあるもんなんすかねえ。わたしはズバリない。理由は簡単で、今の名前を知らないから、だ。まあ、きっと、今頃は幸せにしているであろうよ……と思うに留めといた方がいいんじゃねえかなあ。知らないでいた方がいいことってあるもんなあ。知ってしまったがために、気にやむようなことは避けた方がいいような気がしますね……。そういう、知らない方が良かったことが、ごくあっさり分かるという、変な世の中になりましたなあ……というのがわたしの本作に対する一番大きな感想です。はい。壺と思っとけばいいじゃない。改めて、別の見方をしなくても……ねえ。
 ところで、わたしが本作を読んで一番興味を持ったのは、果たして宿野かほる氏なる著者は一体何者なんだろう? という疑問だ。男? 女? 若いの? 中年以上? そんな疑問を実は一番強く感じたのだが、まあ、それも敢えて知る必要もないか。どれもあり得るだろうし、分かったところで何の意味もなかろうし。若い女子ってのがありそうかなあ。一つだけそう思う理由はあるけど重大なネタバレなので書けない! それにまあ、若い野郎・おっさん・おばさん、そのどれかなら普通過ぎて面白くないしね。

 というわけで、どうでもよくなってきたので結論。
 新潮社が8月に刊行するという作品が、2週間限定で全文読める、そしてそのキャッチコピーを募集! という妙な企画があったので、とりあえず作品を読ませてもらったのだが、結論としては、面白い、と判定するに全くやぶさかではないので、2時間ほどお時間の取れる方は是非読んで、オレならどんなキャッチコピーにするかなあ、と考えてみるのは結構アリだと存じます。わたしとしてはまあ、普通の面白さで、とりわけ深く思うことは何もない。少なくとも、わたしにとっては、この5年で読んだ小説の中で一番驚いた作品、なんて感想は持ち得なかった。たぶん、世の小説好きの皆さんも、そこまでの感想をもつのか、若干疑問です。なんか、そこまで持ち上げてハードル高めて大丈夫か、と他人事ながら心配だが、ま、話題作りってことでしょうな。以上。

↓ そうだなあ……ここ数年で読んだ中で、一番、な、なんだってーーー!? とわたしが驚いたのはなんだろうなあ……小説じゃないけど、映画だとこれかなあ……

手紙は憶えている(字幕版)
クリストファー・プラマー
2017-05-03

いや、やっぱり、こっちかなあ……

小説の完成度では、やっぱりこれかなあ……。7年前だけど……。