わたしは25年ぐらい前の学生時代に黒澤明監督作品をすべて観たのだが、その時の話は以前このBlogでも書いたのでもういいとして、わたしが思う黒澤映画のすごいところは、その「現代性」にある。とりわけ、現代劇の場合に顕著なのだが(現代劇といっても、作られた昭和20~30年代当時の現代)、今の平成の世に生きる我々が見ても、全く通用するテーマが描かれている作品が多くて、とにかくその先見性というか普遍性というか、現代社会の問題点を60年70年前にとっくに作品として残しているのだ。要するにそれらの問題点は、今もなお問題であり続けているわけで、結局人間はいつの時代にもかわらねえんだなあ、と、黒澤作品を観るといつも思うのである。なので、なんというかわたしは、黒澤作品を観ると、過去を学ばないで同じことを繰り返す人間の性、のようなものに愕然とし、しょんぼりし、恥ずかしくなるのである。
 で。
 黒澤映画は、もはやどんなに状態のいいフィルムでもひどい映像で、とりわけ音声が潰れてセリフが聞き取れないような状態にあるのだが、近年、デジタル化の技術向上により、かなり画質も音声も良好になった、いわゆる「デジタルリマスター」の製作が進んでおり、だいぶ前にこのBlogでも取り上げた通り、とうとう黒澤作品の本命である東宝作品も、4K技術によりデジタルマスターの作成が進んでいる。
 わたしがこの記事を見て仰天したことは、既にこのBlogでも書いたが、なんと光学録音されたサウンドトラックを、「画像データとして修復」するという目からウロコの荒ワザで、音声の状態もかなり良くなったらしい。そしてその4Kマスターの『七人の侍』と『生きる』が、「午前十時の映画祭」で公開されるというニュースを知ったのが今年の2月のことで、わたしはもう、ずっと今か今かと待っていた。そしてとうとう先週から『生きる』の上映が始まり、わたしも超・楽しみに劇場へ向かったわけである。ちなみに、TOHOシネマズ日本橋では、次の次の作品が『七人の侍』であるので、自分用備忘録としてメモっとこう。10/22~11/4だから忘れんなよ、オレ!!

 というわけで、とうとう、4Kマスターの実力を味わってきたのだが、おそらくは、映写機側も4K対応機でないと意味がないわけで、たぶん、わたしが観たTOHOシネマズ日本橋は、TOHOシネマズとしては新しく建った部類に入るけれど、4K対応映写機かどうか、かなり怪しいような気がした。わたしが使っている4Kテレビは、異様なほどきれいで逆に違和感を感じるくらいにくっきりはっきりだけれど、どうだろうな……ちょっと分からない(※追記:どうやらTOHO日本橋はSONY製4K映写機を導入しているっぽいです)。しかしそれでも、映像も音声もかなりクリアになっている印象だ。でも、これはたぶん、それまでの従来の映像・音声で見たことのある人でないとわからないと思う。初めて見た人なら、これが普通、と思うのではなかろうか。特に音声は、オリジナル(というか古いフィルム)の状態はとにかくセリフが聞き取れないレベルなのに、今回は明確に聞き取れて、これは非常に良いと思った。この分だと、『七人の侍』も相当期待できそうな修復レベルであろうと、今から楽しみだ。
  ところで、もはや『生きる』という作品について、説明はいらない……よね? はっきり言って最高に面白い。しかし、わたしももう10回ぐらい見ている作品なのだが、今回初めて、ああ、『生きる』ってコメディだったんだな、と初めて認識した。実はわたしが観に行ったのが今週の月曜日の朝で、ちょっと仕事をサボって観てきたのだが、客の入りは結構多くて、かなり多くの人々が、この映画を観て笑い声をあげている現場に遭遇したのである。
 ただし、コメディといっても、これは皮肉・風刺・デフォルメが込められた、ブラックコメディである。わたしはもう何度も観ていて物語を知っているし、周りの人々から「アイツは真面目な野郎だ」と称される人間なので、主人公の姿は非常に痛々しく、とても笑う気にはなれないのだが、なるほど、普通の人からするとこういう真面目に生きてきたことだけが全ての男の生きざまは、笑いの対象なんだな、と初めて理解した。何とも悲しいというか残念なお知らせだが、それが普通、なんだろうね、きっと。おまけに、ラスト近くの、左卜全さんの名セリフ「……助役って言えぇッ!!!」で笑いが起きるなんて、わたしはちょっとびっくりしたよ。あそこは、一緒になって怒るところだとわたしは思ってたのに。
  と、ここまで、わたしが何を言っているか分からない人と、自分用の備忘録として物語を少しまとめておこう。以下、完全ネタバレです。これから見ようとする人は自己責任で。そして、どうせ皆さん見やしないだろうから遠慮なく書きまくります。

 『生きる』は1952年、すなわち、ええと、昭和27年になるのかな、もう64年前の作品である。ちなみに、この作品の次に黒沢監督が撮ったのが『七人の侍』で、1954年公開です。
 主人公の渡辺勘治は、とある市役所の「市民課」の課長である。どうやら、お役所行政の世にあって、市民の声の窓口として、「市政に関する皆様の不平・不満・注文・希望、何でも遠慮なくお申し出ください」という意図で設置された部署らしいが、そこの課長として毎日働く渡辺さんの、胃のレントゲン写真が画面に映し出され、淡々としたナレーションからこの作品は始まる。ナレーション曰く、
 「これは、この物語の主人公の、胃袋である――。噴門部に胃がんの兆候が見えるが、本人はまだそれを知らない」そしてそこに、奥さん連中がやってきて、近所の水たまりになっている空き地を何とかしてくれ、臭いし蚊はわくしでたまらん、公園にでもしてほしいのだが、という陳情にやってくる。せっせと書類にハンコを押し続ける渡辺さん。話を聞いた部下が、陳情が来てますけど、というと、顔も上げずに一言「土木課」とだけ答える。そして再びナレーション。
 「これがこの物語の主人公である。しかし、今この男について語るのは退屈なだけだ。なぜなら――彼は時間をつぶしているだけだ。彼には生きた時間がない。つまり彼は生きているとは言えないからである」
 すると突然、市民課の女子が笑い声をあげる。なんだ? とみんなが驚くと、女子は、回ってきたメモを読んで笑ったらしい。メモ曰く「君、一度も休暇を取らないんだってね」「うん」「君がいないと役所が困るってわけか」「いや、僕がいなくても全然困らんということがわかっちゃうと、困るんでね」課内はシーーン、である。そして再びナレーション。
 「ダメだ、これでは話にならない。これでは死骸も同然だ。いや、実際、この男は20年ほど前から、死んでしまったのである。その、以前には、少しは生きていた。少しは仕事をしようとしたことがある」
 ここで、せっせと押していたハンコに、朱肉が詰まったようで、渡辺さんは引き出しを開けて、紙を破りとる。その紙には、昭和5年に提出した、「業務効率化に関する私案」と書かれている。かつての渡辺さんの熱意が分かる一瞬のシーンだ。そして再びナレーション。
 「しかし、今やそういう意欲や情熱は少しもない。そういうものは、役所の煩雑きわまる機構と、それが生み出す無意味な忙しさの中で、まったくすり減らしてしまったのだ。忙しい。まぁったく忙しい。しかしこの男は、本当は何もしていない。この椅子を守ること以外のことは。そしてこの世界では、地位を守るには、何もしないのが一番いいのである。しかし、いったい、これでいいのか? いったいこれでいいのか!? この男が、本気でそう考えだすには、この男の胃がもっと悪くなり、それから、もっと無駄な時間が積み上げられる必要がある……」
 そして場面は、奥さんたちの見事なまでのたらいまわしが映される。
 市民課→土木課→公園課→保健所→衛生課→環境衛生係→予防課→防疫係→虫疫係→再び市役所の下水課→道路課→都市計画部→区画整理課→消防局→再び市役所の児童福祉係→市議会議員→市役所助役→市民課(スタートに戻る)。この一連の、役人連中の無責任さと責任のなすりつけあいは、確かにもう、笑うしかない。
 しかし、奥さん連中にとっては笑えない話であり、市民課に再びやってきた奥さんたちはとうとう、ブチ切れる。「あたしたちはねえ、あんたたちヒマ人と違うんだよ!!! だいいちねえ、あたしたちはあの臭い水たまりを何とかしてくれって言ってるだけじゃないか!!! 市民課でも土木課でも保健所でも消防署でも、そんなことはどうでもいいんだよ!! それを何とかしてくれるのが市民課じゃないのかい!!」 ちなみに、このブチ切れる奥さんは、若き日の菅井きんさんである。
 ここまで、映画が始まって冒頭10分しか経過していない。そしてこの10分で、観客はもう完全に物語に入り込むことができるだろうと思う。見事なオープニングだ。
 そもそも、ナレーションで語られる、主人公の仕事ぶりは、おそらく、この映画を観る社畜リーマンの観客でも、まだ「死んでいない」人からすれば、これはもう完全にウチの会社のアイツだ、と思い当たることだろうし、主人公と同様に「死んでいる」ようなどうしようもないダメリーマンが観れば、もしまだ心が残っているなら、「これはオレだ」とドキッとするだろうし、完全に死骸となったゾンビ・リーマンに成り下がっていれば、他人事として笑えることだろう。スクリーンに映る渡辺さんが自分自身であることに気が付かずに。こういう点が、わたしの言う黒沢映画の「現代性」だ。これって、ほんと、今のサラリーマンが観ても、すぐ自分や自分の周りに置き換えて観ることができるよね。そこがすごいわけです。
 で、物語は、主人公ががんであることを知り、息子に打ち明けようとするも、息子と嫁は、さっさと家を出たい、ついては父さんの退職金も結構あるだろうから、なんて皮算用をしている。そんな話を聞いた主人公は、、自暴自棄になり、飲み屋で知り合った小説家とキャバレーやストリップに行ったりする。そして、冒頭で爆笑していた市民課の女子と町でばったり出会い、市役所を辞めるからハンコをくれ、いや、うちに置いてあるから来る? 行く! という展開になって、その後、その女子と仲良くなっていく。そして、息子に対する愚痴を言う。今までは息子のために頑張ってきた。けど、その息子も全然自分のことなんてどうでもいいと思ってるんだ。
 その時、女子は、もう既に市役所を辞めて、おもちゃ工場で働いているのだが、こんな話をする。
 「うちのお母さんもそんな話を時々するわ。お前のために苦労してきたって。でも、生まれたのは赤ん坊の責任じゃないわよ。息子さんに、そんな(課長が一生懸命働いてきたことに対する)責任はないわよ」
 そういわれた主人公は、意を決して息子夫婦と話をしようとするが、大失敗。とにかく口下手で話ができず、挙句に、最近の放蕩を説教されてしまう。しょんぼりする主人公は、また女子と会い、とうとう打ち明ける。
 「つまりそのう……」
 「つまりなんなのよ!」
 「つまりそのう……わしは君とこうやってると……楽しいから……」
 「老いらくの恋!? だったらお断りよ!」
 「そうじゃ……わしはただ……」
 「ねえ、もっとはっきり言ってよ! そんな雨だれみたいにポツンポツン言わないで」
 「…………わしは、そのう……自分でもわからない。どうして君の後ばかり追い回すのか……ただ、わしに分かっているのは………………きみっ! わしはもうすぐ死ぬんだ!! わしは胃がんだ。君、わかるかい? どんなにじたばたしても、あと、1年か半年で……子供の頃に溺れかけたことがあるが、その時とそっくり同じなんだ。目の前が真っ暗で、もがいでもあばれても、な、何にも捕まえられない……ただ、君だけ……しかし、しかし君を見てると、何か、何かあったかくなる。その……つまり君は、若い、健康で、ただその……つ、つまり、つまり、君はどうしてそんなに活気があるのか、まったくそのう、活気が、それがそのう、わ、わしには、それがうらやましい。わしは死ぬまでに、一日でもいい、そんな風に、生きて死にたい!! それでなければ、と、とても死ねない!! わしは、な、何か、することが、いや、何か、したい。そ、ところが、それが、分からない。ただ君はそれを知ってる。い、いや、しらんかもしれんが、現に君は……教えてくれ! 君のように……」
 「わたし、働いて、食べてるだけよ!!」
 「そ、それだけか!」
 「それだけよ!! ほんとよ!! あたし、ただこんなもの作ってるだけよ!!」
 工場で作っているおもちゃを取り出す女子。
 「こんな物でも、作っていると楽しいわよ。これを作り出してから、日本中の赤んぼと仲良しになったような気がするの……ねえ、課長さんも、なんか作ってみたら?」
 「役所で……いったい……何を……」
 「そうね……あそこじゃ無理ね……あんなとこやめて、どっか……」
 「………もう……遅い……(1分以上の長い間)………いや……遅くない……いや、無理じゃない。あそこでもやればできる。ただ、やる気になれば……!!」
 そして女子と別れて喫茶店を出る主人公。この時、喫茶店では女学生たちが誕生日会をやっていて、盛大に「Happy Birthday」の歌がかかる。まさしく、主人公が新たに生きはじめ、新たな「誕生」を迎えた超・名シーンだ。
 そして、場面は、5か月後、主人公の葬式の場面に移る。そしてお葬式では、どうやら主客と思われる市役所の助役が偉そうなことばかり言っている、そのうち、新聞記者が、「あの公園を作った立役者は渡辺さんですよね」と取材に来たり、冒頭の陳情奥さん軍団もお焼香に現れ、渡辺さんを想って涙を流す。それを見ている市役所の連中と助役。助役はいたたまれなくなって、さっさとバックレ、助役がいなくなると、今度はみんなで助役の悪口を言う。最初は、みんなも役所の各部門の成果だと言ってたのに、一人だけ、心ある課員が、渡辺さんを称える。すると、そういえばこんなことがあったんですよ、と、5カ月にわたる渡辺さんの、ある意味不気味な執念が、回想で描かれる。やくざ者の脅しや、助役の強硬な態度にも、まったく屈しなかった渡辺さん。そりゃあそうだよね。もう、何も怖いもの、失うものがないんだから。そして場の空気は、みんなが、やっぱ渡辺さんスゲエ、というように変わっていく。そして、渡辺さんの手柄を横取りするあいつは許せない、という話になったところで、もうべろべろに酔っ払った市民課課員のおじちゃんが怒鳴るのである。「(アイツじゃなくて、ちゃんと)助役って言えぇ!!」と。そしてみんな、よーし、これからはオレたちも、渡辺さんを見習って、生きた仕事をしようぜ、お―!! 的な空気になって場面は終わる。そしてラストは、一人心ある課員の視点だ。結局、葬儀の場で盛り上がったみんなも、なーーんにも変わらない。残ったのは、この公園と、公園で遊ぶ子供たちの笑顔だけだ……と、物語は終了する。
 このエンディングは、『七人の侍』とよく似ているとわたしは思う。『七人の侍』のラストは、無事に野武士団を撃退した村の百姓たちが、歓喜の下に田植えをしているシーンで終わる。その百姓たちを見て、激闘を生き残った七人の侍のリーダー、勘兵衛はつぶやく(言うまでもなく、勘兵衛を演じたのは、『生きる』で主人公・渡辺勘治を演じた志村 喬氏。最高です)。「勝ったのは、わしらじゃあない。百姓どもだ……」命をかけて戦い、散って行った侍たちは顧みられることなく、後に残るのは村と村人のみ。そして生き残った侍はクールに去る――。こういった、人間のエゴ(?)を黒澤監督は生涯テーマとして描いていたとわたしは思っているが、別にほめられたいから、誰か人のために、人は行動するのではなく、あくまで人は自分自身のために、自分の「納得」を求めて生きる。『生きる』の渡辺さんも、実のことろ、陳情奥さん軍団のために公園を作ったのでは決してなくて、あくまで、自分自身が「生きている」実感を得るため、なんだよね。わたしは黒澤映画を観ると、いつもそんなことを思うわけであります。黒澤映画は最高です。

 はーーー長すぎた。もう好きすぎてカットできなかったわ……そして台詞を書き出すために、わたしが持ってるBlu-rayを見ながら書いたので、映画館に行った日からかなり時間がたってしまった……やれやれ。
 どうですか。このクソ長い文章を最後まで読んでくれた人はほとんどこの世にはいないと思うけれど、面白そうでしょ? つーか完全ネタバレですが。
 
 というわけで、結論。
 黒澤明監督による『生きる』は、誰が何と言おうと超・名作です。4Kマスターは、やっぱり私の持ってるBlu-rayと比較してもかなりクリアな映像と音声ですね。4Kマスター版のDiskが発売になったら、買ってもいいかも。そして、黒沢映画を見ていない人は、わたしは一切、映画好きとは認めません。絶対に。そこは譲れませんな。映画好きと名乗りたいなら、黒澤を全部見てから出直して来な、とわたしは周りの連中によく言ってます。最高です。以上。 

↓ ほほう、今は配信でも見られるんですな。わたしとしては『七人の侍』の4Kリマスターも超楽しみっす!!
生きる
志村喬
2015-04-22