というわけで、『チャイルド44』の続編である『グラーグ57』を読み終わった。
グラーグ57〈上〉 (新潮文庫)
トム・ロブ スミス
新潮社
2009-08-28

グラーグ57〈下〉 (新潮文庫)
トム・ロブ スミス
新潮社
2009-08-28

 途中で出てきて初めて知ったのだが、「グラーグ」とは、ロシア語の「強制労働収容所」のことだそうだ。正確には、グラヴィノーエ・なんちゃら・ラーゲリの略らしいが、いずれにしても、この作品でちょっとした舞台になる「グラーグ57」とは、太平洋岸にある第57強制労働収容所のことである。
 ちょっとした舞台、という言い回しをわたしが使った理由は、全体の1/5もないぐらいの分量しか、そこが舞台とならないからだ(そこへ行くまでの行程を含めるともっとあるけど)。しかも、はっきり言って本筋とはほんの少しズレていて、別にそこでの行動が最大のカギ、というわけでもないので、なぜこのタイトルにしたのか、正直良くわからない。と、思って、原題を調べてみたら、この作品の本当のタイトルは『The Secret Speech』というのだそうだ。もちろん、フルシチョフの「秘密報告」のことだろう。それならわかる。非常に内容にマッチしたタイトルだと思う。日本語タイトルは、おそらくは前作に引っ掛けて、なんか数字をタイトルに付けたいなーと、担当編集がひねり出したんだろう。センスゼロと言わざるを得ない。

 のっけからケチをつけてしまったが、はっきり言って期待したほど面白くはなかった。
 すでに9/25付けのエントリで触れたように、この物語は、憎しみの連鎖をどう断ち切るか、主人公レオは過去の自分の行いにどう落とし前を付けるのか、という物語だと思ってずっと読んでいたのだが、その辺は実に、なんというか美しい形では決着したものの、ズバリ言ってしまえばレオ本人の行動の結果ではなく、まあ強いて言えば愛は尊い的な決着であった。なので、えっ!?  っと思うシーンが多くて、わたしとしてはかなり興ざめ感が強かった。
 少し詳細を見ていこう。
 
 冒頭は、1949年、レオがまだ新米の国家保安省捜査官のころの話だ。 とある男を逮捕し、妻ともどもグラーグ送りにさせた事件が語られる。で、現在時制は1956年である。前作の事件が1953年であり、それから3年が経過しており、レオは国家保安省時代の自らの行いを非常に悔いている。何人もの罪のない人々を、「命令されたから」逮捕し、死刑に至らしめたり、あるいはグラーグ送りにしてきたからだ。その無知で無批判だった自分を償うために、今は前回の事件解決の褒美として秘密裏に設立してもらった殺人課で犯罪捜査を行っている。そんな折、フルシチョフにより「秘密報告」が世に出た。いわばスターリン時代の全否定である。あれは間違っていた、と最高権力者が認めてしまった。その結果、レオは冒頭に描かれた7年前の事件の復讐の対象になってしまう……

 というのが、前回もほぼ同じことを書いたけど、今回の物語である。
 しかし、残念ながら、レオは最終的に落とし前を付けたとは到底思えない。物語上、かなり、んん?? と思ってしまうような展開が多すぎた印象である。以下、わたしが、この展開はないなと思ったポイントを、自分用備忘録としていくつか挙げておこうと思う。
 ■レオについて
 ちょっと超人すぎるように思う。壮絶な拷問を何度も受けるが、何とか持ちこたえるし、拷問で体はボロボロなのに結構がんばって戦うし、なんだかそういう展開を読まされると、あの拷問ってたいしたことなかったのか? と思えてしまう。今回、レオは、本当に、本当にひどい目に遭う。よく生き残れたなこの人。基本的に、計画がずさんで、いつも出たとこ勝負になってしまっているのもいただけない。その結果、レオを超人のように描写せざるを得ないわけで、レオ個人の頑張り以外で、事態を克服する力が働いてもいいのではと思う。
 ■ネステロフについて。
 正直、プロット上で一番選択してはいけない展開を著者は選んでしまっているのではないか。今後の展開でも、きっと著者は後悔するだろうし、あまりにもネステロフの最期の描写はあっさりしすぎているし寂しすぎる。レオを理解してくれている唯一の親友をこんな無駄な使い方をするとは、まったくもって信じがたい。ネステロフ不在の結果とは言えないかもしれないが、後半の物語はほとんどが偶然や、敵役の不可解な行動(動機が理解できない行動)でレオは助かる展開になっており、「もう一枚のカード」がないレオの行動は、なんだか物語の厚みを減じているのではないかと思う。007だって、MやQや助けてくれる女性とか、そういうバックアップがあってこそ戦えるのに、今後の物語で孤立無援にしてしまったのは、どうにもいただけないと思った。
 ■ラーザリについて
 グラーグに君臨するリーダーとしての描写は非常にいい。が、やはりレオとともにグラーグを逃走しようとする動機が甘く、せっかくのグラーグでの登場時のキャラクターとぶれているように感じた。狂い切れていないというか、中途半端で嘘くさく感じる。これは、フラエラと違って、レオ個人に対する恨みと、ソビエトという国家に対する恨みが描き分けられておらず、未消化だからではなかろうか。あっさりレオと行動を共にしようとするのが、妻たるフラエラへの愛? だけで説明されても、今ひとつ説得力に欠ける。
 ■フラエラについて
 フラエラではっきりしているのは、レオへの憎しみよりもソビエトという国家への憎しみの方が大きいということだ。そして最終的に、レオへの復讐も、国家への復讐もきっちりやり遂げたと言っていいのだろう。そういう意味では非常に芯が通っている。ただ、なんというか、ビジュアルイメージがどうしても浮かばず、どんな人物像なのか、もう少し随所で身体特徴の描写が欲しいような気はした。『Terminator2』でのサラ・コナー的な感じなのかな? もっと荒んでいる感じかなぁ……。
 ■ゾーヤ&マリッシュ
 まあ若いお二人が愛を育むってのは悪くない。が、ゾーヤの性格のゆがみは最終的にもっとわかりやすく矯正されてもよかったと思う。マリッシュが非常にいいキャラクターであるのだから、もう少し、ゾーヤの心を明確に溶かす方向にしてほしかった。それまでのゾーヤなら、マリッシュの死すらもレオのせいにしたっておかしくないのに、なんだか、最終エピローグでいい子になりそうな余韻を出しているのは、物語としては非常に心地よく美しいものの、ちょっとだけ違和感がある。
 ■ライーサ
 正直、この女性は前作から良くわからん。母としての行動は、非常に分かるし、良く描けているが、妻としての行動は、今作でも良くわからない。結局、レオを愛しているのかどうかさえ、なんだか不明瞭でシーンによってちぐはぐと言うかバラバラな印象。まあ、それが人間ってものなのだろうから、それでいいのかな……。そして、改めて考えるとやたらと身体能力が高く、意外とライーサも超人なのが何気に変と言うか、正体不明感を煽っているような気もする。

 というわけで、結論。
 『グラーグ57』は、わたしとしては冒頭に書いた通り、期待していたほどは面白くなかった。ただ、世界史の勉強にはなったので、読んで損はなかったと思う。しかし……「捜査官レオシリーズ」3部作の、最終作をすぐ読み出そうという気には、ちょっとなれないので、別の作品を読み始めようと思う。


 ↓  なんだか、レーニン~スターリン~フルシチョフ~ブレジネフ~アンドロポフ~チェルネンコ~ゴルバチョフの流れは、一回勉強しておいた方がいいかもしれないな……。人類史上における壮絶な実験と失敗の顛末として。