2015年08月

 今年の初めに実写映画が公開され、先日はアニメ化も発表された『ジョーカー・ゲーム』。柳 広司先生によるスパイアクション(?)小説シリーズであり、昨日の夜、わたしが読み終わった『ラスト・ワルツ』は、その4作目のにあたる、今のところのシリーズ最新刊である。
ラスト・ワルツ
柳 広司
KADOKAWA/角川書店
2015-01-16





 発売されたのは、今年の1月で、要するに映画に合わせた形での発売であったが、映画の方は残念ながら興行成績も振るわず、また、内容的にも、ややトンデモ映画と化していたので、まあ、映画は全くの別物と理解すべきであろう。映画は残念なことになったが、原作である柳先生の小説は非常に面白く、今回もまた非常に楽しめた。
 わたしは柳先生の作品をすべて読んでいるわけではないが、わたしが読んだ限りではやや面白さにむらがあり、これは全くつまらんというものもあれば、こいつは非常に面白いと思うものもある。わたしの好みでいうと、『吾輩はシャーロック・ホームズである』『はじまりの島』『新世界』あたりは良かったが、『キング&クイーン』は全くダメだった。だが、この『ジョーカー・ゲーム』をはじまりとする「D機関」シリーズは、やはり一番面白いというか、わたしの好みに一番合う作品群なのである。
  
 「D機関」シリーズの舞台となるのは、昭和12年からの数年間であり、西暦で言うと1937年から物語は始まるのだが、要するに第2次大戦直前である。1937年というと、1939年(昭和14年)のドイツ軍によるポーランド侵攻を第2次世界大戦の始まりとすると、その2年前にあたる。ドイツでは既にナチスが政権を握り、日本も既に国際連盟を脱退し、世は戦争へ向けた不穏な空気をはらみつつ、戦前最後の華やかさが失せつつある時代だ。この、時代設定が非常に絶妙である。日本が太平洋戦争へとなだれ込む直前の、一番緊張感の高い時期と言ってもよいのではないかと思う。
 この一連の「D機関」シリーズは、基本的に短編連作である。各エピソードごとに主人公が違う物語にあって、共通した設定はただ一つ。それぞれの主人公が、「D機関」と呼ばれる大日本帝国陸軍に設置された「スパイ養成学校」出身のスパイである点だ。当時、日本も当然スパイ養成をしていたことは周知の事実で、情報戦としての第2次世界大戦を追いかけてみるのもなかなか面白い。有名なのは、これまでいろいろな映画や小説の題材になっていることでおなじみの、いわゆる「陸軍中野学校」で、これは実在のものである。柳 先生の創作した「D機関」は当然それを下敷きにしているのだとは思うが(※いや、明確に、第1作で、中野学校の対抗軸として創設された、みたいな設定があったかも。すみません。そのあたりの設定は忘れた)、小説としてのエンタテインメント性が高く、非常に優れたスパイ小説であると思う。太平洋戦争へ向けた大きなうねりの中で、果たしていったい、どんな日本人スパイが活躍していたのか。もちろんフィクションであるが、物語を貫く緊張感は非常に高く張りつめている。

 だいたい、1冊の作品に短~中編が3~5本、という構成になっているが、とりわけ大きな存在感を放っているキャラクターが、「D機関」を創設した「結城中佐」である。彼自身は、ほとんど物語には登場しない。たまに、各話の主人公たちが、ああ、そういや結城中佐が言ってたな、と回想の中で語られる程度である。だが、ほぼ毎回、結城中佐の存在が感じられるほど、彼のキャラクターは鮮明かつ強烈だ。
 スパイは目立ってはいけない。故に「死なず・殺さず」が掟であり、必ず情報を持ち帰ることがスパイにとっての勝利であるとする結城中佐。そんな彼に鍛えられた、それぞれの主人公が活躍する様は、非常にカッコイイ。もちろん、絶体絶命のピンチにも陥るが、「死んではならない」ことを叩き込まれた彼らが、最後の最後まであきらめず、持てる能力をフルに活用して、窮地を脱出する。実に爽快で、なんというか、シャレオツな雰囲気すら感じられる。そういった窮地を脱する場面では、時に、すべてを先読みして準備していた結城中佐の影がちらつくあたり、大変スタイリッシュだ。なんとなく、空気感的には『カウボーイ・ビバップ』を彷彿とさせるものがあり、菅野よう子の音楽が聞こえてきそうなカッコ良さがある。

 そんな物語が、「D機関」シリーズであり、今回の『ラスト・ワルツ』にも当然受け継がれている。今回は3話しかなかったが、どれも非常に楽しめた。第1話は、ちょっとした密室系ミステリー。第2話は、若き頃の結城中佐の影を追い求める女性の話、そして第3話はゲッペルスとレニ・リーフェンシュタールと、なんとかの有名なフリッツ・ラングまで登場するドイツ国内を舞台にしたアクション。と、今回も彩り豊かだ。特に3話目は、ラストのどんでん返し(?)まで、わたしは全く気が付かなかった。お見事、である。

 どうやら、アニメはそういうテイストを活かして作られる気配があり非常に期待ができそうだ。そもそもこの小説は短編の積み重ねであるため、TVシリーズ向けでもあろう。なので、せっかくの映画化が「あんなこと」になってしまってとても残念だ。柳先生本人に、長編をひとつ書いてもらうべきだったと思うが、まあ、あれは別物という事で一つよろしくお願いしたい。

 というわけで、今回もちょっと短いが結論。
 柳 広司先生の描く『ジョーカー・ゲーム』シリーズは、読書好きなら自信を持ってお勧めできる作品です。そして最新作『ラスト・ワルツ』も安定の面白さでありました。わたしとしては、シリーズは続いてほしいのだが、一方で、結城中佐が、太平洋戦争においていかなる行動を取ったのか。それがとても知りたい。しかしそれは、シリーズ最終作までは書けない話であろう。
 
 ――あ、ええと、映画は観なくていいです。

↓まずは第1作を読むべきでしょうな。文庫化されてますので、とりあえず買いです。
ジョーカー・ゲーム (角川文庫)
柳 広司
KADOKAWA/角川書店
2011-06-23




 

 このBlogを始めて、既に取り上げた『人工知能 人類最悪にして最後の発明』という本や、Christpher Nolanについていろいろ書いてみたが、 そういや、人工知能モノの映画が最近あったな、しかもNolanが原案じゃなかったっけ? と思い、調べてみたら、『TRANSCENDENCE』という映画に行き着いた。
トランセンデンス [Blu-ray]
ジョニー・デップ
ポニーキャニオン
2014-12-02




 ああ、これこれ、Johnny Deppのあれだ、と思い出したのだが、この映画は去年2014年公開で、実のところわたしは見ていない。でも待てよ……とHDDレコーダーをあさってみたところ、WOWOWで放送されたのをちゃんと録画していた。さすがオレ。やることに抜かりなし、である。

 というわけで、まったくもっていまさらなのだが、さっそく観てみた。そしてこの映画が、まさしく『人工知能 人類最悪にして最後の発明』 を映画化したんじゃね? というぐらい、話が非常に近接していて、しかもNolanっぽさも少し感じられる映画であることを発見した。
 まあ、ストーリーは、天才博士が開発した「意識を持つAI」があって、まさしく『人工知能 人類最悪にして最後の発明』の著者のような、AIヤバイ、AIが人類を滅亡に導く! という思想のテロリストグループがあって、世界の(といってもアメリカ限定っぽかったが)AI 工学者を暗殺していくと。で、主人公もそのテロの標的になっており、暗殺される、と。しかし、死に瀕した彼を愛する妻(この妻も天才学者)が、夫の意識を夫が開発したシステムに移植して……というお話だ。ちなみに、今説明したくだりは映画開始約25分で終了。問題はそのあとなのだが、それを書いたらもう完全ネタばれなのでやめておきます。
 ただ、驚いたのが、まさに『人工知能 人類最悪にして最後の発明』で書かれていた通りの展開で物語が進むのだ。まず、自分で自分のプログラムをどんどん書いて、自分で進化していく。そしてナノテクノロジーを進化させ、どんな病気や怪我も治るようになる。そして、自らのエネルギーを確保するために、資源を求めていく……という流れは、『人工知能 人類最悪にして最後の発明』に書かれていた通りだ。そういう点ではきわめてリアルであり、ありそうな未来としての恐ろしさは十分感じさせてくれる作品であった。

 面白いのが、進化したAIは、ネット接続を求める、そして一度インターネッツに接続されたAIはもう手がつけられなくなる、と『人工知能 人類最悪にして最後の発明』には書いてあるのだが、まさにその通りに描写されていて、この著者はこの映画を見てどう思っただろうと非常に気になった。なので、いまさらながら、訳者あとがきを読んでみたところ、思いっきりこの映画のことが書いてあった。すいません。あまりにつまらなかったので、訳者あとがきを読んでいませんでした。けど、もうちょっとこの映画との類似性を書いてくれればいいのにとも思う。それほど、非常に似ている。なので、この映画を見れば、『人工知能 人類最悪にして最後の発明』を読む必要はほとんどないと思う。

 ただ、この映画が示すエンディングは、きわめてハリウッド的というか、愛は地球を救う展開なので、若干興ざめではある。それに、正直なところ、見ていて、主人公のAIと、阻止する側のどちらに肩入れすればいいか、かなり混乱するような気がする。わたしとしては、人類滅亡はまったく望むところでもあるので、エンディングにはなんというか、なーんだ、という感想しか持ち得なかった。わたしとしては、AI反対派のテロリストや政府はとりあえずぶっ殺していただきたかったが、人殺しの彼らが余裕で生き残ってしまう結末は実に不満が残る。
 
 あと、まったくどうでもいいが、この映画は中国資本が入っているそうである。
 なのに! 主人公の意識が格納される量子コンピューターにへんな日本語を使わないでいただきたい! まるで日本の技術が世界を滅ぼす的なミスリードは、若干不愉快である。
 なお、そもそもの元になる「量子プロセッサー」は、まだこの世に存在しないので(たぶん)、当分、この映画で描かれるようなことは実現はしないことを最後に付け加えておく。

 というわけで、今日は短いが結論。
 『TRANSCENDENCE』は、『人工知能 人類最悪にして最後の発明』とすげえ似てる! と思う以外は、特に何も感じるところがなかったので、これ以上書くことがありません。

「PCT」と聞いて、ああ、あれね。とすぐにピンと来る日本人はそうめったにはいないと思う。かく言うわたしも、もちろんなんだそりゃ、である。しかし、あらためて、「Pacific Crest Trail」と聞けば、若干の想像は付く。まあ、「PCT」でも「Pacifit Crest Trail」でも、分からないことはGoogle先生にお伺いを立ててみれば3秒で分かることだ。
 とりあえず、詳しい説明はWikipediaに任せるとして、 要するにアメリカ西海岸の山岳地帯を、メキシコ国境からカナダ国境までつらぬく、長ーーーい自然遊歩道のことだ。
 この遊歩道を歩き通す。そんな冒険野郎が世界にはいるようで、この映画『Wild』――邦題:『わたしに会うまでの1600キロ』――は、そんな冒険女子のお話だ。


 わたしは、とりあえずこの邦題を見て、まーた自分探し系の痛い女子モノかと若干の不安を抱いた。どうせまた、忙しい日常に自分を失ったアラフォー女子が、甘い考えでPCTに挑戦して、苦労の果てに無事にやり遂げて、よかったよかった的なハッピーエンドなんでしょ、と。
 ズバリ言えば、このわたしの完全なる予断は、7割方合ってはいた。しかし、主人公をPCTへと駆り立てた動機は、わたしの想像よりもずっと深刻で重く、はっきり言ってわたしは大いに感動してしまったのである。

 最初に言っておくと、これはいわゆる「based on a true stoy」である。実話ベースの物語で、全米ベストセラーの原作付き映画だ。日本語訳は、帰りに本屋で探してみたところ、映画にあわせて静山社から発売になっているようだ。 文庫だったら買ってもよかったのにな。ちょっとお高いので、本屋で5分ほど悩んで結局買わなかったが、ちょっと気にはなる。
 なお、PCTとはいえ、ずっと大自然の中を歩き通す、わけではなく、持てる荷物もそりゃ限界があるわけで、何度か山を降りて街で補給するし、途中でベースキャンプ的な、日本で言うところの山小屋めいた施設(?)も出てきて、そこ宛に荷物を送ってもらって受けとる、みたいなシーンもあった。そりゃそうだ。PCTの達成には数ヶ月もかかるんだから。

 というわけで。ネタばれにならない範囲で簡単に説明すると、最愛の母を失ったことで精神失調となってヘロインに手を出したり家庭崩壊に陥った主人公が、母がかつて言っていた「美しい地に身を置きなさい」という言葉を思い出し、偶然手に取ったPCTの本を見て、挑戦を決意するというのが話の大筋である。
 問題は主人公に共感できるかどうか、にすべてかかっているのだが、こんな短い説明だけでは、まあピンと来ないだろうとは思う。しかし、主人公を演じるReese Witherspoonの演技は確かであるし、また、なんと言っても母を演じるLaura Dernの演技が非常にすばらしいため、単純なわたしはもう、簡単に、映画を観ながら「がんばれ!」と完全に応援体制に入ってしまった。
 わたしがこうもたやすくこの映画に入り込んでしまったのは、おそらくこのPCTが、日本のお遍路に近いものであると感じたためであろうと思う。わたしのことを知る方ならご存知だと思うが、わたしは2007年にお遍路を実行し、5ヶ月かけて「結願」(※けちがん、と読む)達成した男だ。もっとも、わたしは一日も会社を休むことなく、土日だけを利用して、チャリンコでお遍路修行を行ったので(※5回に分けて行った)、歩いたわけではないが、何か、漠とした「わたしはこれをやり抜くんだ」という思いを抱きながら、黙々と旅を続ける姿は、わたしには完全にお遍路に重なる。そう。この映画は、まさしく「お遍路ムービー」なのである。

 人がお遍路をする動機は、きっとさまざまで、人の数だけ思いはあるものだろうと想像する。まあ、わたしがなぜお遍路に旅立ったかについては、小1時間ほど時間が必要なのでここでは触れないが、おそらく共通するのは、誰か大切な人を亡くしたことがきっかけになっている場合が大半だと思う。じゃなきゃ行かないよね。そして、そこにはいくばくかの「後悔」が含まれているはずだ。あの時こうしていれば……という思い。基本的に、お遍路は今はなき人の魂の冥福を祈る行為であり、今を生きる自分が抱えるなんらかの後悔めいた思いを乗り越えるためのものだとわたしは認識している。誰かを思って歩き通す。そしてあの時の自分を肯定あるいは許すための自虐。それがお遍路と言うものだ。

 そんな個人的事情もあり、わたしはすっかり主人公を応援する体制にはまったわけだが、その背景にはやはり、Laura Dern演じるお母さんの素晴らしさが存在する。常に明るくポジティブで、恐ろしくひどい目にあっても前向きな母。そんなお母さんをなくしたら、主人公でなくてもお遍路に出たくなると思う。母は、過酷でつらい目に遭いながらも「生きること」の喜びを主人公に説きつづけ、「もっと生きたかった」と語る。主人公はPCTを、常にいろいろなことを思い出しながら、母の思い出と共に歩き続けるわけだが、人に「つらくない? やめたいと思わないの?」聞かれれば当然、「ええ、2分ごとにもうやめたいと思うわ」と答える。だけどやめない。ただただ、歩き続ける。
 これは、マラソンやトライアスロン、あるいは登山をたしなみ、あまつさえお遍路も経験しているわたしには、非常にうなずけるものだ。わたしもよく、マラソンなど「つらくない?」と聞かれることがある。そんなの、つらいに決まってんだろうが! バカな質問するなよな、と心の中で思いながらも、わたしはいつもこう答える「ええ、走ってるときは何にも楽しくないっすよ。ホント、何やってんだオレって思います」と。すると、大抵こう聞かれる「じゃ、なんでやるのそんなこと」と。
 わたしとしては、「その答えが知りたいなら、お前も走れ!」と言いたいところだが、世間的に善人で通るわたしは、「まあ、ゴールしたときの爽快感・達成感っすね。とにかく、ゴールしたときの気持ち良さは他には代えられないっす」と、まじめに答えることにしている。事実、そうとしか言えない。おそらくは、実際にやることのないあんたには永遠にわからんだろうな、と思いながら。

 だから、この映画が誰しもに感動を与えるかどうかは、正直よく分からない。もちろん、わたしでも、ちょっとこれはと思うところもある。例えば、明らかに何も鍛えていない主人公が、出発の際に重い荷物を背負って、ただ立ち上がるだけでも非常に苦労するシーンがあるが、その後は、なんか結構へっちゃらで歩いていて、えーと、これはどうなの? と思わなくもないし、本当はもっともっと過酷だっただろうに、その旅路の過酷さはそれほど描写されていない。まあ映画のポイントはそこじゃないということなんだろうが、若干あっさりゴールにたどり着いたな、とは思った。
 
 ただ、ゴールを前にした主人公の表情、とりわけ、ゴール直前の森の中で出会う少年の歌を聞いたときの、主人公の涙。そこには、理屈ではなく、万人の感動を誘う何かがあるようにわたしには感じられた。Reese Witherspoonの演技もかなりいいです。監督のJean-Marc Valleeは、前作『Dallas Buyers Club』で完全に一皮むけ、いい作品を撮るようになった。今後わたしの要チェック監督リストに入れたいと思う。

 というわけで、結論。
 『Wild』――わたしに会うまでの1600キロ――は、なかなかお勧めです。自分の大切な人のことを思いながらみていただきたい。そして、自分の今までの生きてきた道のりを振り返っていただければ、この映画を製作した人々は嬉しいだろうと思う。

 ↓うーーん……どうしよう……原作、読もうかしら……。映画の感動が崩れるような気がするんだよな……。
わたしに会うまでの1600キロ
シェリル・ストレイド
静山社
2015-07-24





 

 それでは、不気味なハイブリッドとわたしが呼ぶ『Man of Steel』について見てみよう。
 まず、Supermanは、宇宙人である。この点が、Batmanとの最大の違いである。Batmanはあくまでも人間で、超人的な鍛錬と財力で、Batmanになったわけで、明確に、自らの意志でBatmanとして生きている存在である。この相違点は、MARVELでいえば、IronmanとThorとの違いと一致しており、まともに戦っては、人間であるところのBatmanやIronmanに勝ち目はない。勝てるとするならば、人間の知恵と経験を武器にするしかなかろう。
 いずれにせよ、Supermanの出生やその後の地球での成長は、既に1978年のRichard Donner版に詳しくそして美しく描かれているので、我々としては今回もそういう場面が描かれるのであろうよ、と想像していたわけだが、Nolanによる「リアル」さは、残念ながらDonner版で描かれたような、美しい物語を許してくれなかった。
 そもそもわたしがこの映画で気に入らない点は、まったく構成が『BATMNA Begins』と同じ点である。回想を交えながら現在をさまようクラーク・ケント。我々は、クラーク・ケントがひげもじゃで放浪している理由がまだわからない。回想によってそれはだんだんわかってくるわけだが、まったくもって『Begins』と同じ展開だ。
 そして、クラーク・ケントの出生にかかわる、クリプトン星での悲劇。ここは、Donner版では、ある意味次の『 II 』のための伏線として意味のあるシーンではあるが、あそこで一番重要なのは、カル=エル(Supermanのクリプトン星での本名)がいかに両親から愛され、その命を希望として託されたかということを、観客の感情に訴えることである。そして、地球にやってきても、再びケント夫妻に愛され、すくすく育ったわけで、いわばDonner版のSupermanは、愛のために戦う超人なのである。まったくもって漫画チックであり、リアルさとは程遠いのだが、美しく万人が受け入れる基本設定であろう。
 しかし、今回のNolanDNAにより誕生した作品では、やや趣を変えている。
 まず、クリプトン星での描写だが、きわめてリアルである。資源を採掘し終え、星としての寿命を迎えるクリプトン星。それはDonner版、というより原作通りなのであろう(※実はわたし、偉そうに書いているがSupermanの原作コミックを読んでいない)。しかし、明確に、ゾット将軍の描き方は別物だ。Donner版では、『 II 』で敵となるゾット将軍は、なんというか、単なる宇宙犯罪者的な描かれ方で、『 II 』においてSupermanと戦うのも、まあ、自分をファントムゾーンへ追放したジョー=エルの息子だから、ぶっ飛ばして恨みを晴らすか、的な緩い描かれ方である。しかし、NolanDNAにはそんな緩さはなく、明確に、ゾット将軍にはカル=エルを追い、戦う理由が設定されている。ゾット将軍には、きっちりと自分の正義が存在するのだ。彼からすれば、Supermanこそ裏切り者(の息子)であり、銀河の果てであろうと、追いかけていく必要があるのだ。
 恐ろしくリアルである。が、そもそもこのゾット将軍との戦いをメインとしたことが『Man of Steel』の方向性を狂わせた、ともいえるような気がしている。なにしろ、宇宙人vs宇宙人の異次元バトルとなるのだから、それをリアルに描かれたら、地球なんてぶっ壊れちゃうよ。まあ、この点は後に詳しく見よう。とにかく、クリプトン星での出来事や、ゾット将軍の立ち位置も良くわかった。また、カル=エルが愛に包まれてクリプトン星を脱出したことも、非常に美しく描かれている。ここまでは順調だ。さすがNolan、リアルであってもきちんと分かってるじゃないか。わたしは、この辺のくだりでは、この『Man of Steel』に傑作の予感を抱いていたのだが……問題は地球での成長の描かれ方である。

 ちょっと想像してみてほしい。特にわたしのようなおっさん世代の方は特に。
 もし、結婚していているが子供がいない状況で、ある日、天から愛らしい子供が降ってきたら?
 
 まあ、そりゃ警察へ通報ですな。リアルな世界に生きる我々としては。
 しかし、それでは、話がそこで終了してしまうので、なんとしても、ケント夫妻には、自らの子として養育してもらう必要がある。ここは、Donner版では、かの有名なシーン、赤ん坊のカル=エルが車の下敷きになりそうだったケント夫人を、ひょい、と車を持ち上げて助けることで、「おお、この子は神様が遣わしたのじゃ」的に引き取ることで解決している。非常に映像的にも効果的な名シーンだが、今回のNolan原案版では、ここは全面カット。後にケント父の語り「あの時は政府がやって来るかと思ったけどな」の一言で振り返るだけ。なんというか、うーん、分かってない。
 問題は、その後の養育の模様だ。Nolan原案版では、地球人クラーク・ケントとしての青春が、おっそろしく暗いのだ。何故か? それは、Kevin Costner演じるケント父による、厳格な教えがあるからだ。「絶対に、お前の持つ力を他人に見せてはいけない」という教えは、クラークの精神を縛り上げ、精神的なタブーとして心に刻まれている。これは、Donner版では見られなかった点だし、わたしが名作認定しているBrian Singer版『Superman Returnes』でも、クラークはのびのびと育ったような背景を思わせるシーンが登場する。あの、トウモロコシ畑を走るクラークの明る笑顔を思い出してほしい。 Supermanはこうでないといけない。
 Nolan原案版では、この父の教えが極めて重要なキーになる。「力を持っていることを知られるな」。これは、ちょっと現実に立ち返ると、全くうなずける教育方針でもある。だって宇宙人だぜ? それがバレたらどうなるか、そして物凄いパワーを秘めていることが人に知れたらどうなるか。それを考えれば、確かにそりゃ隠すだろう。その点で、人間心理の面ではきわめてリアルで、いかにも真面目青年Nolanの原案らしい展開だ。しかし、いじめの対象になって、ぐっと耐えるクラークの哀しい顔を、我々は観たかっただろうか?
 そしてこの父の教えは、あろうことか、その父さえも、まさに目の前で亡くすという悲劇に行き着く。あのシーンで、ケントの精神が完全に父の教えによって征服されてしまっていることがはっきりする。 ちょっと考えれば、力を見せないようにしながらも、父を救う方法はいくらでもあっただろうに、ケントは父に「来るな! お前の力は見せてはいかん!」と命ぜられると、もはや動けなくなってしまった。あの場面で、父は命を懸けて、「力を見せるな」という教えをクラークに伝えることに成功する。だが、それはもはや、「呪い」というべきだ。クラーク・ケントことカル=エルことSupermanは、そんな呪いをかけられてしまった哀しい宇宙人なのである。明るく振る舞えるわけがない。
 自分には、人を助ける力がある。だが、それは決して人には知られてはならない。なんともエゴイスティックな思考であると断罪するのは簡単だが、実際、我々はそういう場面に遭遇することがままある。それは、世を上手に生きていくために、やむを得ないことかもしれない。ケント父は、「お前の力を認め受け入れることは、今はまだ地球人にはできない」と言う。確かに。その考えは非常に「リアル」であり、現代的であり、理解はできる。だが、映画を見ている我々としては、理解はできても、到底納得できない。不快感すら感じるのではないか。「人に知られてはならない」ことと、「力を使わないこと」は、全く同意語ではない。人に知られずに力を使う事はいくらでも可能なはずだ。それを克服しているのが、MARVELヒーローSpider-manである。Sam Raimi版での有名な言葉を思い出してほしい。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」。ベンおじさんのこの名言をクラークに聞かせてやりたいわ! と思った方も多いだろう。Spider-manにとどまらず、いわゆるアメコミヒーローは「マスク」を着用するのが普通である。その理由は単純明快。「正体を隠す」ためだ。
 全く豆知識だが、どうして素顔のクラーク・ケントとSupermanは同じ顔なのにバレないの? と思う方も多いだろうから、説明しておくが、原作上の設定では、クラーク時に着用しているメガネから、謎の催眠電波? が発生していて、同一の顔であるとは認識されてないんですと。なんじゃそりゃwと笑っちゃうかもしれないが、ヒーローが顔を隠すのは、実のところ基本中の基本ではある。
 だが、真面目文学青年Nolanには、到底受け入れがたい設定であることも容易に想像できる。Supermanに思い入れのない彼からすれば、「えーと、なんで正体バレないの?」と素朴に疑問を感じることだろう。しかし、おそらくはどうしてもこの「同じ顔なのにバレないのはなぜか」を克服できなかったんじゃないかとわたしは想像する。それ故、逆にこの「人に知られるな」という設定を強めてしまったのではないかと思う。「リアル」を追求したが故の、最初の躓きポイントだとわたしは思った。
 そしてNolan原案版では、父喪失後のクラークは、アイデンティティ・クライシスに陥り、放浪の旅に出る。オレって何なの? オレの力は何のためにあるんだよと嘆くさまは、まったくもって「リアル」であり、そこまで描く必要はあったのか、はなはだ疑問に思える。世界をさまようクラーク。思わず力を使って人を助けても、正体を隠すために別の土地へと放浪は続く。このくだりは、完全にMARVELのHulkと同様だ。Hulkもまた、力を使ってしまった後、直ちにその地を去り放浪を続ける哀しい存在である。
 そして、ゾット将軍が地球にやって来るわけだが、ここも、Donner版とは大きく違って、恐ろしくリアルだ。そもそもゾット将軍は、クリプトン星の軍人である。故に、地球へのアプローチも、軍人の流儀に適っている。Donner版では、地球にやってきたゾット将軍御一行様は、(偶然降り立ったアメリカで)軍に包囲され交戦、軍の最高司令官である大統領に会いにホワイトハウス襲撃する流れだ。一方、Nolan原案版では、地球にカルーエルがいることを突き止めた(突き止めるくだりもいちいちリアル)ゾット将軍御一行様は、地球来襲、衛星通信システムをジャックして、全地球向けに「裏切り者カル=エルを差し出せ」と地球の各地語で要求。差し出さない場合はこの星をぶっ壊すと脅迫。うわー、リアルですなぁ。そしてきわめて軍人っぽい。
 その脅迫に対して、当然クラークは、正体を明かさない掟と、人を助けたいという思いに板挟みになって悩むのかな……と思ったら、あっさり「あいつが探してるのはオレっす」と、のこのこと軍に投降、身柄を確保される。なんてリアルな話の流れなんだろう。まったくもって、矛盾なく自然な流れではある。
 しかし、「劇的」では全くない。ギリギリまで悩んで悩んで、地球攻撃の1秒前間に「待たせたな!」と、堂々と登場すればいいのに。そこの悩みを描いた方が、「人間心理」を描くNolan節が炸裂しただろうに、変にリアルに描いてしまったのが残念だ。もちろん、作中では、ゾット襲来の前に、ケントは意識体となった本当の父・ジョー=エルと再会して、自らの出生を知っているので、既に父ケントの教えは克服しているとも解釈できる。しかし、父ケントを見殺しにした心の傷が、それで癒えちゃっているとはちょっと思えないというか、思いたくないのだが……。
 他にも、いろいろあるが、つまり、『Man of Steel』は、とにかくいちいち「リアル」なのだ。しかしそのリアルさは、どうも事象に対するリアルさといえばいいのか、やけに冷たいものである。Nolan得意の「人間心理」のリアルさはまさに『The Dark Knight』という超傑作を生みだした原点にもなったわけだが、どうも今回は、底が浅いような気がしてならないのである。おそらく、ではあるが、この作品は、最初から最後までZack Snyderに任せて、コミックの完全再現という方向だけでよかったのではないかと感じている。
 最後の、ゾット将軍との戦いも、必要だったのは「リアル」ではなく、コミック的なデフォルメや「絵」としての見栄えだったのではないか。今回、ゾット将軍との戦いは、リアルすぎて、何がどうなっているのか、まったく理解できない。スピードが速すぎて全く目が付いていかず、脳の処理も追いつかないのだ。そりゃそうだ。宇宙人同士の戦いに我々地球人が付いていけるわけないんだから。そんな宇宙人同士のスーパーバトルを、リアルに描いて見せてもらっても、我々にはなすすべがない。だいたい、お互いにガチの殴り合いをしても、別に痛くもなんともないんだから、あんなバトルを延々と見せられても、まさしくスーパーサイヤ人同士の戦闘をリアルに再現しているだけであって、まったくもって、わたしが見たかったのはコレジャナイのだ。もっと、Zack Snyderお得意のスローモーションや過剰な照明で、カッコよく描けたはずなのに、本当にがっかりだ。
 そして、最大のがっかりというか、わたしが一番驚愕したのが、ゾット将軍との戦いの結末である。なんと! あろうことか! Supermanが文字通り自らの手で殺人を行うとは!! 確かにあの場面は、完全にサンデル教授の「これから「正義」の話をしよう」に出てくる思考実験そのものである。ここでゾットの命を奪わないと、大勢の人が死ぬ。さあ、ゾットを殺しますか!? という状況に陥るわけだが、Supermanは3秒ぐらい悩んであっさり殺ってしまう。まじかよ!! とイスから転げ落ちそうになったのは私だけではないはずだ。確かに、Supermanことクラーク・ケントは、33歳カンザス州出身の善良なアメリカ市民として育ったわけである。だから彼の選択は、ある意味まっとうであり、やむを得ないことであろうし、極めてリアルだ。
 でも。でも待ってくれ。あんたSupermanだぜ!? もうちょっと脚本家には別の道を考えてほしかった……と思ったのは、おそらくは私だけではないはずだ。

 恐らく、来年公開される『Batman V Superman Dawn of Justice』は、『Man of Steel』同様のリアル路線で製作されることは確実であろう。既にTrailerが公開されている。※日本語字幕版はこちら※  
 この映画では、どうやら、Supermanを神のようにあがめる人々と、Superman=エイリアンに対する脅威を説く人々との対立があり、さらにそこで、ゾット将軍との戦いに巻き込まれて多くの命が失われたことに怒り狂っているBatmanが絡んでくる展開のようだ。もちろん、人々を扇動するのは、宿敵であるレックス・ルーサーである。
 そこまでリアルにして、ホントに面白いのかな? 

 
 というわけで、結論。
 この、異様ともいうべきリアル路線。これが、わたしが憂う『DCコミックスのはまった迷宮』である。
 せっかく、コミック世界を完全再現できる世界一の男Zack Snyderを起用したのに、このままリアル路線を突き進んでも、おそらくは行き詰るだろう。だって、元は漫画なんだから。もうちょっと、肩の力を抜いていただきたいものである。このままでは、この先、真っ暗な重い話にしか展開できないような気がしてならない。まったくもって、救いがないのだ。次作で人間代表としてBatmanがどのようにして事態の収拾を図るのか、あるいはさらに真っ暗闇の中に突き放すのか、楽しみに待っていよう。

 以上です!


 ところで、全く蛇足ながら付け加えておくと、『Batman V Superman Dawn of Justice』には、DCヒロインのWonderwomanや、新ヒーローAqua-Manまでもが、どうやら登場するらしい。そこまでキャラを増やして大丈夫だろうか? あくまでも『Marvel's The Avengers』がうまく行ったのは、各ヒーローの背景をまったく描く必要がなかったからだったのに、新キャラ続々では……きわめて心配である。わたしの心配が杞憂であることを祈ってやまない。

 WarnerによるNolanを起用した新たなBATMANサーガは無事に、いやあんまり無事ではないけど少なくとも興行的には大成功のうちに幕を閉じた。一方そのころDisneyは、新たな新外国人MARVEL COMICを配下に置き、『Marvel's The Avengers』というウルトラ大ヒット映画を2012年に公開することで、「え? BATMAN? なにそれウマいの?」という情勢を作り上げてしまった。
 もともと、『The Avengers』 の計画は「Marvel Cinematic Univers」という共通世界観の下で、2008年から進んでおり、それが結実したのが2012年になるわけだが、ちょっとここで、いわゆるヒーロー映画の主な流れを、ごく簡単にまとめてみよう。わたしの思いつく限りの作品なので、オイィィ! あれが抜けてるぞ! と思った方は教えてくださいね。
 
 公開年/タイトル/出身レーベル/映画版元/監督/世界興収 の順に記述する。
 1978/『Superman』/DC_Comic/Warner/Richard Donner/300M$。
 1981/『Superman II 』/DC_Comic/Warner/Richard Donner続投/情報なし。
 1983/『Superman III 』/DC_Comic/Warner/Richard Lesterにチェンジ/惨敗
           →この後1984年『Supergirl』1987年『IV』が公開されるがドイヒーな結果に。
 1989/『Batman』/DC_Comic/Warner/Tim Burton/411M$。
 1992/『Batman Returns』/DC_Comic/Warner/Tim Burton続投/266M$。
 1995/『Batman Forever』/DC_Comic/Warner/Joel Schumacherにチェンジ/336M$。
 1997/『Batman & Robin』/DC_Comic/Warner/Joel Schumacher続投/236M$。
 1998/『Blade』/MARVEL/NewLineCinema/Stephen Norrington/131M$
 2000/『X-MEN』/MARVEL/FOX/Brian Singer/296M$。
 2002/『Spider-man』/MARVEL/SONY/Sam Raimi/821M$
   『Blade II 』MARVEL/NewLineCinema/Gullermo del Toro/155M$
 2003/『X2』/MARVEL/FOX/Brian Singer続投/407M$。※X-MEN2のことね。
   『Daredevil』/MARVEL/FOX/Mark Steven Johnson/179M$
 2004/『Spider-man2』/MARVEL/SONY/Sam Raimi続投/783M$
       『Blade:Trinity』/MARVEL/NewLineCinema/David S Goyer/128M$
 2005/『Fantastic Four』/MARVEL/FOX/Tim Story/330M$。
   『Batman Begins』/DC_Comic/Warner/Christopher Nolan/374M$
 2006/『X-MEN:The Last Stand[』//MARVEL/FOX/Brett Ratnerにチェンジ/459M$。
   『Superman Returns』/DC_Comic/Warner/Brian SingerがX-MENを
     蹴って就任したことで話題に/391M$と微妙だが、名作だとわたしは思ってる。
 2007/『Spider-man3』/MARVEL/SONY/Sam Raimi完投/世界興収890M$
   『Fantastic Four:Rise of the Silver Surfer』/MARVEL/FOX/Tim Story続投/289M$。
   『Ghost Rider』/MARVEL/SONY/Mark Steven Johnson/228M$
 2008/『The Dark Knight』/DC_Comic/Warner/Christopher Nolan続投/1,004M$
     『Iron Man』/MARVEL/Paramount/Jon Favreau/585M$
     『The Incredible Hulk』/MARVEL/Universal/Louis Leterrier/263M$
 2009/『X-Men Origins:Wolverine』/MARVEL/FOX/Gavin Hood/373M$
 2010/『Iron Man 2』//MARVEL/Paramount/Jon Favreau続投/623M$
 2011/『Green Lantern』//DC_Comic/Warner/Martin Campbell/219M$。
    『X-Men:First Class』/MARVEL/FOX/Matthew Vaughn/353M$
    『Thor』/MARVEL/Paramount/Kenneth Branagh/449M$
    『Captain America:The First Avenger』/MARVEL/Paramount/Joe Johnston/375M$
 2012/『Marvel's The Avengers』/MARVEL/Disney/Joss Whedon/1,519M$
   『The Dark Knight Rises』DC_Comic/Warner/Christopher Nolan完投/1,084M$
        『The Amazing Spider-man』/MARVEL/SONY/Marc Webb/757M$
   『Ghost Rider:Spirit of Vengeance』/MARVEL/SONY/Mark Neveldine/132M$
 2013/『Iron Man3』/MARVEL/Disney/Shane Black/1,215M$
        『Thor:The Dark World』/MARVEL/Disney/Alan Taylor/644M$
    『Man of Steel』DC_Comic/Warner/Zack Snyder/668M$
        『The Wolverine』/MARVEL/FOX/James Mangold/407M$
 2014/『The  Amazing Spider-man2』/MARVEL/SONY/Marc Webb続投/708M$
   『X-Men:Days of Future Past』/MARVEL/FOX/Brian Singer再び/748M$
   『Captain America:The Winter Soldier』/MARVEL/Disney/Russo Bros./714M$
   『Guardians of the Galaxy』/MARVEL/Disney/James Gunn/774M$
 2015/『Avengers:Age of Ultron』/MARVEL/Disney/Joss Whedon続投/1,401M$
    『Ant-Man』/MARVEL/Disney/Peyton Reed/361M$
 以下、今後の予定も、もうかなり決まっていて、タイトルだけ列挙すると
 2016/『Batman v Superman Dawn of Justice』、『Captain America:Civil War』が大玉で控え、X-Menの新作や、新ヒーロー『BlackPanther』、あるいはAvengersの次回作など具体的な公開予定日まで既に発表されている。はーーこのデータまとめるだけで今日は疲れたわ。

 で。
 見ての通り、1978年の『Superman』が、近現代におけるヒーロー映画の元祖だとして、そもそもはDCヒーローが優勢だった映画業界において、今や完全にMARVEL軍団の圧勝である。その源になったのは、もちろん先行していたX-MenやSpider-manの貢献が非常に大きいが、やはり2008年から始まるMarvel Cinematic Univers計画、別名Avengers計画の大成功によるものであろうと思う。このクロスオーバー作戦により、MARVELは覇権を握ったと言って差し支えあるまい。

 Warnerとしては、SONYやFOXやParamountに分散していたヒーロー映画たちを、Nolan=BATMANで各個撃破していたはずなのに、Avengers計画という名のもとに、いつの間にやら完全にDisneyに包囲されていたのだ。何という誤算!! Warnerはまたも緊急幹部会を開くことになる。時は、おそらくは2010年から2011年ぐらいであろう。いよいよAvergers計画の最初の集大成である『Marvel's The Avengers』の撮影が始まろうとしている頃ではないだろうか。

 「バッカ野郎! なにをみすみすやられちまってんだ俺たちはよう! Nolanのガキが気合入れてタマ取ってきたっつーのによ、お前らどこまで馬鹿なんだこのどあほうが!!」
 「押忍! サーセン! で、でもあいつら……」
 「バッカ野郎! でもあいつらじゃねえ! すっぞオラァ!」
 「押忍! サーセン! でも、あいつら汚ねえんすよ! 単品で主役張れるヒーローを揃えといて、そいつら一気にまとめて出すなんて……」
 「バッカ野郎! それだよそれ! あの、なんだ、アベ……あべれんじゃ……?」
 「押忍! サーセン! アベンジャーズ、っすね」
 「バッカ野郎! 分かってんだよ! とにかくそのアベレンジャー? なんか、協定違反とかじゃねえのかよ!? あんなのありかよ!」
 「押忍! サーセン! ナシ……じゃねえと思います! 観客大喜びです!」
 「バッカ野郎! あの野郎ども誉めてどうすんだてめえ! すっぞオラァ!!」
 「押忍! サーセン! ハラキリます!」
 「……おめえがハラキリしたって床が汚れるだけだぜ……」
 「Goyerの兄貴! 押忍! サーセン!」
 「おう、Goyerか! おめえ、Nolan野郎とよろしくやってでかいヤマ張ってくれたな。で、またなんかいい策があるっつーのか!?」
 「……オヤジ、こいつを見てくれよ」
 Goyerが懐から出したのは、DCコミックスが1960年に発行した、貴重なプレミア初版本だ。タイトルは――『Justice League』。
 「……じゃ、じゃすてぃすりーぐえ?」
 「……ジャスティス・リーグです……オレたちのDCコミック先生は、あのMARVEL野郎よりも3年も先に、ヒーロー大集合作品を描いてたんすよ……」
 「マジか! それ本当か!? 信じていいのか!?」
 「……ええ。マジですよ。大マジです。SupermanとBatmanの夢の競演。こいつを今のオレたちで撮れば……」
 「撮れば?」
 「……あのAvengersに勝てます!!!(キリッ)」
 「それだああーーーー!!」
 「……だけどオヤジ、こいつを実現するには、あいつらのやり方をパクる必要があります。順番に、ひとつづつ、そして集合、です。だから、ちょいと時間が必要ですぜ」
 「かまわーーん!! それでもいいから、撮れ!」
 「……承知しやした。あと、もう一つ。Nolanのガキ、もうちょいとしばらくお借りしますぜ。あいつの力が必要だ」
 「おーし分かった! おめえに任す! Nolanのガキも連れてっていいぞ! ほかに要るもんはあるか」
 「……ありがとうごぜえやす。じゃ、もうひとつだけ。今回の計画には、Zack小僧を使います。あの、『300』と『Watchmen』で腕上げやがった、あのZack Snyderですよ。あいつのCGの腕はホンモンですからね……」
 「あの小僧か。確かに腕上げやがったな。分かった。小僧も連れてけ」
 「……ありがとうごぜえやす。ククク……NolanのBATMANとZack小僧のCGによるSuperman……こいつは面白れえことになってきやがったぜ……!」

 こうして、Warner本社は、Avengers計画に対抗するプロジェクト、Justice League開発を承認したのである。Goyerの計画はこうだ。まず、現在Nolanが撮影中の『The Dark Knight Rises』をきっちり終わらせる。そして次に『Superman』を撮らせる。その後に、『Justice League』を撮って、Avengersに対抗する、と。
 そして無事に『The Dark Knight Rises』は完成し、大ヒットとなる。しかし、その時はまだ、おそらくWarner幹部は、わたしが指摘する『The Dark Knight Rises』が陥った欠陥について、全く気にしていなかったはずだ。なぜなら、もし気が付いていれば、『Man of Steel』はあんな映画にならなかったはずだからだ。
 Goyerは陽気なアメリカ人キャラで、再び『The Dark Knight Rises』製作中のNolanのオフィスに赴いた。

 「……(カタカタカタカタ)……」
 「ういっすー。Nolan君ホントお疲れっす~……あとちょっとで終わりだね……って何やってんの?」
 「……(カタカタカタカタ)……次回作、ですよ。Goyerさん、用がないなら帰ってください。ウザいんで。」
 「も~~~真面目だなぁ君は。まだRises終わってないのに、次の書いてんの? で、どんなのよ?」
 「……(カタカタカタカタ)……キップ・ソーンのブラックホール理論をベースにしたSFです……」
 「(なんだそりゃ。全然わかんねえ)ま~~た難しいの始めたねぇ~~ところでさ、Nolan君にまたお願いがあるんだよね~~」
 「……(カタカタカタカタ)……無理です。忙しいんで。」
 「(つれねえガキだなこいつ!)いやいやいや~そんなこと言わないでさぁ~今度はね、Supermanを撮りたいんだよね。Nolan君も手伝ってくれないかな~」
 「……(ピタリ)……Superman?」
 「そ。Superman」
 「……(わなわな)……いい加減にしろ―!! だから、僕はイギリス人なの! 僕はコーヒーより紅茶派なの! 僕がいつか撮りたいのは007なの! Supermanに思い入れなんてないの! もう帰れヤンキー野郎が!」
 「(ブチッ)うるせーこのイギリス紳士! アメリカ人の魂なんだよSupermanは! 文句あるかこの野郎!」
 「……(ハアハア)……僕はSupermanなんて知らないんだから、また、最初っからになりますよ。誕生から描くしかない」
 「いいよいいよ、それでいいよ全然! それに、今回は原案だけでいいんだ。監督は、Zackにやらせるから」
 「……Zack……Zackってもしかして、『300』の……」
 「そ。あのZack Snyder君。あれ? 知り合い?」
 「……いや、面識はないですが、『300』は観ました。あれは確かにすごかった」
 「だろぉ~~? Zack君のCGで描いたSuperman、観たくない?」
 「……いえ別に。でも、わかりました。プロットだけなら、書いてもいいです」
 「(オッケイ!)そうそう、それだけでいいからさ、頼むよ、ね?」

 こんな経緯でNolan流Supermanの企画は動き出す。
 しかし、その結果生まれた『Man of Steel』がどうなったか。
 
 『Man of Steel』もまた、「もし本当に、Supermanが存在していたら?」というコンセプトで作られたことは明白だ。タイトルに、Supermanと入れない点も、まあはっきり言って『The Dark Knight』のパクリである。すべてがリアル、であり、すべての話の流れは、ありうべき道筋をたどっている。ほぼ、何ら矛盾はなく、物語という観点からは何一つ文句のつけようがない。映像的にも、Zack Snyderによる最新CG技術を駆使した素晴らしいもので、まさに本物、まさに現実の光景としか思えない仕上がりになっている。映像的には、本当に完璧だ。

 なのに、なぜか、違和感がぬぐえない。それは映像なのか、物語なのか、あるいは両方なのか。

 Zack Snyderは、紛れもなく優秀な映画監督である。彼の『300』や『Watchmen』は、ともにコミック原作だが、ほぼ100%完璧な仕上がりで、最初観たときは、またすごい才能が現れたと、わたしは非常に喜んだものだ。彼の作品のすごい点は、さまざまな技術をフル活用して、コミックを完全再現する創造力にある。ワンシーンワンシーンが、コミックそのものなのだ。コミック的な過剰演出、多用するストップモーションによる止め絵。過剰なライティングも、実に漫画チックな絵作りに貢献している。背景はロケなのか、すべてCG合成なのか、それすらも全く分からない。そう。Zack Snyderの作品は、動く漫画なのである。画は非常にリアルである。しかしZackが集中するのはあくまで映像であって、ストーリー・物語は全くリアルとは縁遠いのである。

 すなわち『Man of Steel』は、リアルな心理描写、リアルな物語を描くNolanのDNAと、リアルな画面・コミック的過剰演出を持ち味とするZackのDNA、この二つの天才のDNAから生まれた作品で、誰もが、すごいのができるはず、と期待したはずだ。
 しかし、結果的には、なんとも不気味なハイブリッドが誕生してしまったのである……。

<あれーーー終わらない! 次で絶対終わらせます! 許して!>



 

 『BATMAN Begins』の大成功により、当然WarnerとしてはBATMANシリーズは継続、次回作の製作も当然じゃ! ということになり、第2作もNolanの手に委ねられるわけだが、Nolanは、Warnerから第2作の前に君の好きな作品を撮ってもいいぜ、というご褒美をもらう。その映画が2006年に公開された『The Prestige』である(※日本公開は2007年)。正確にはオリジナルではなく、原作小説のある作品ではあるが、非常によくできており、わたしは結構面白いと思う。主役には『Begins』で苦楽を共にしたChristian Baleと、『X-MEN』で既に大スターになっていたHugh Jackmanの二人を迎え、さらには今やNolan組には欠かせないMichael Canieが脇を固め、ヒロインには、わたしがオレの嫁認定しているScarlett Johanssonを充てるという、必勝態勢で臨んだ作品だったが、いかんせん、『Memento』チックな技巧に寄ってしまい、やや万人受けはしないものになってしまった。なんというか、Nolanの初期のころの作品作りは、いわゆる日本の叙述ミステリーに近いものがあり、なんか、作者の「してやったり」みたいな作意が感じられてしまって、どうにも鼻につく。
 まあ、この作品はヒーロー映画とは全く関係がないのでこれ以上言及しないが、気になる方は是非見てくれ。悪くない。

 話を戻そう。続く『The Dark Knight』だ。
 この作品では、とうとうタイトルからBATMANという名前さえ外してしまった。ノーランにとっては全く不要で当たり前の選択だったのだろうが、おそらくはWarner本社では相当な抵抗があったことが想像できる。わたしも、看板シリーズの名前をタイトルに入れない、なんて作家が言い出したら、全力で説得するだろう。勘弁してよ……と。
 しかし、それでもこの作品は大ヒット。タイトルにBATMANが入っていなければならないという必要性はまったくなかったと、結果が証明してしまった。全世界で10億ドル、US国内だけでも5億ドル稼いだこの作品は、アメリカ国内では歴代5位の興行成績を残す結果となった(※公開した当時は歴代3位だったが、その後『Marvel's The Avengers』と『Jurassic World』に抜かれちゃった)。

 はっきり言って、この『The Dark Knight』は超傑作である。この映画を評価する人は多いし、この映画をつまんねーという奴は、ほぼ確実に、1)物語をそもそも理解できない頭の悪い人間、か、あるいは、2)とりあえず人と違うこと言ってる俺かっけえ、と勘違いしている、やはり頭の悪い人間だと断言して構わない。なるべく付き合わないことをお勧めする。
 そもそも、BATMANというキャラクターは、常に眉間にしわを寄せ、とてもじゃないが気さくなヒーローではない。夜中に目撃したら、何も悪いことをしてなくても、ビビッて逃げるしかない。それはなぜか。BATMANは、恐怖の象徴だからだ。幼少時に、両親を殺された若きブルース・ウェインは、悪が許せない。絶対に。そんな彼が出した結論は、悪には悪を。恐怖にはそれを上回る恐怖を! というものなのだ。だから、彼は決して光り輝くヒーローではない。あくまでも、毒には毒を持って制することを旨とする、法律無用のOUTLAWなのだ(ただし殺人だけは絶対に犯さない)。故に、The Dark Knight=暗黒の騎士なのである。まったくもって、いまだ厨二病をわずらうクズ人間のわたしからすれば、カッコイイこと甚だしい。ブルース・ウェインの財力か、トニー・スタークの天才頭脳&財力があればオレだって……と、全世界の男子を虜にせざるを得ない。
 この本質を、きっちりとそしてリアルに描いた作品が、Nolanによる『The Dark Knight』である。BATMANを、そしてJokerさえも、一人の苦悩する人間あるいは病んだ人間として描き切ったNolanの脚本・演出は、完璧だ。
 Nolanは、「もし本当に、BATMANが存在していたら?」という着眼点から出発して、リアルさを追求することで、『The Dark Knight』という超傑作を生み出した。ここで描かれるBATMANは、もはや従来のBATMANとは全く別人の、Nolan BATMANと呼ぶべきものだ。Jokerも、あの不気味な口は痛々しい傷痕となって表現され、Joker自身が語る傷の由来も、Joker自身がいろいろなパターンで語るので、全部嘘かもしれないし適当なジョークかもしれないが、例えば父親に切り裂かれたとか、語る内容は現代的で実にありそうな、リアルな話ばかりだった。決して、Tim Burton版で描かれたような由来ではないし、クリーチャーめいた漫画的存在でもない。Nolan版のJokerは、普通にあり得る精神異常犯罪者として描かれている。まさに、リアル、である。そしてそれ故に、『The Dark Knight』は偉大な超傑作になったのだ。

 しかし、である。 『Begins』にあって、『The Dark Knight』では失われてしまった、BATMANという物語できわめて重要な要素がある。それは、Gotham City という街がもつ特異性だ。Gotham Cityは、BATMANを描くためには必要不可欠な、重要な舞台装置である。Nolanは、『Begins』ではGotham Cityを、ウェイン・カンパニーが作り上げた都市としての特異性をモノレールなどで表現していたが、続く『The Dark Knight』 では、全く普通の都市として描いてしまった(撮影はChicagoで行われたようだ)。しかし、このことによって、Nolanが追求する「リアルさ」を付与することに成功してはいるし、「もし本当に、BATMANが存在していたら?」というNolanの基本コンセプトにも適っているが、肝心の、「Gotham City=悪の栄える街」という重要なポイントが消失してしまったのだ。もちろん、『The Dark Knight』においては、物語上重要なキーとなる「警官の汚職」が描かれており、その点ではきちんと悪徳の都としてのGothamを象徴的に描いているとも言える。だが、それは全世界のどこにでもある悪事で、Gothamの強烈なイメージまでは表現できていない。こうなってしまうと、BATMANの存在意義は極めて小さなものになってしまう。究極的にはその存在意義さえ失ってしまうのではなかろうか。だって、悪が憎いのだから、世界中の悪をぶっ飛ばしに行けばいいじゃない。IRONMANみたいに。そう。Nolanが描いたBATMANは、普通の街を守る、ご当地ヒーロー(いや、ヒーローじゃないんだった。依頼がないのに仕事をする必殺”自主的”仕事人か?)になってしまったのだ。

 わたしは、この、街に対する表現の違いが、DCヒーローと、MARVELヒーローの最大の違いだと常々思っている。DCヒーローたちの住む世界は、基本的に架空の町であり、MARVELヒーローたちの住む世界は実在の街(地球に住むヒーローに限る)なのである。もし、『The Dark Knight』において、Jokerが現れたのが、SUPERMANの住むMetroplisだったら、BATMANは戦いに赴いただろうか? おそらく、No, であろう。たまたまGotham Cityに現れたから、BATMANはJokerと戦ったのだと思う。この点は、『The Dark Knight』では、全く問題ではなく、特に気にしなくていい点だが、続く第3作『The Dark Knight Rises』では、物語上において消化しきれないしこりとして、現れてしまっているように思える。

 ――ところで、第3作を作る前に、またもNolanはご褒美として、自分の好きな作品を撮ってもいいというお許しを得ている。そして作ったのが、非常なる傑作『INCEPTION』だ。この作品は、完全にオリジナル作品で原作は存在しない(正確に言うと、着想を得た小説が存在してはいる)。わたしは、常々、映画よりも小説の方がイマジネーションを全開放できるという点では優れているのではないかという持論を持っていたが、この映画を見て、考えを改めた。よく、「映像化不可能」という惹句で宣伝される小説はあるが、まさしくこの映画は「小説化不可能」だと思う。本当に、この映画は素晴らしいと思う。観ていない人は、絶対に観るべきだ。
 
 『INCEPTION』の素晴らしさを語るのは別の機会に譲るとして、問題の第3作、『The Dark Knight Rises』である。公開前から、今回はCatwomanが出る(しかも演じるのはAnne Hathaway! しかもネコ耳復活でオレ大歓喜!)とか、スタジアム崩壊の迫力あるシーンだとかがちらちら露出され、いやが上にも気分は盛り上がりつつ、わくわくしながら劇場へ赴いたわけだが……観終わった時は、BATCAVEを後のRobinに引き渡す最後のシーンで猛烈に感動して、やっぱNolanすげえ! と打ち震えた私だが……しばらくして感動が落ち着いてみると、どうにも、んんん……? と理解できないことがあって、なんとも複雑な思いが残った。
 それは、たぶん観た人なら恐らく誰でも感じる「Bain、弱っ!」というものだ。ビジュアルイメージからして、なんか、イマイチ強そうじゃないし、彼の持ち味は、原作上は天才頭脳と無敵の肉体という両面を持ったBATMAN最強の敵の一人なのだが、その頭脳部分のすごさがどうにも感じられない。前作のJokerを一人の病んだ人間としてリアルに描いたNolanなのに、このBainの薄っぺらさはいったい何なんだ、と。
 このようになってしまった要因は、わたしはやはり、Bainが言う「オレはGothamの申し子だ」という主張が、全く伝わらなかったせいではないかと見ている。リアルを追求してきたシリーズなのに、急に、非現実世界が割り込んできたのである。Gothamを普通の街として描いてしまったこのシリーズでは、Bainの言っていることがさっぱりわからない。Nolanをもってしても、Bainというキャラクターを「リアル」に掘り下げることはできなかったのね……と断罪せざるを得ない。もちろん、最大限の努力はしたと思う。しかし、結果的には、どうにも薄っぺらい、正直まったくどうでもいいキャラクターとなってしまった。他の部分が徹底的に「リアル」が故に、思いっきり、浮いて目立ってしまっているのだ。結果、確かに興行成績は十分以上の成果を残し、全世界興収では記録を伸ばしたが、内容・映画としての完成度としては、2作目の『The Dark Knight』を超えることはできなかった。

 この、リアルとファンタジーの境界線こそ、わたしが主張したいDCコミックスのはまった迷宮である。
 散々引っ張って、言いたいことはそれかよ! と思われたあなた!
 ――アッハイ。その通りです。でも、このNolan流の「リアル」路線が、後の「DCコミックヒーロー映画」に与えた影響は大きいと思う。

 MARVELのヒーロー作品は、上手く「コミック」であることを逆手にとって、トンデモ技術やなんだこりゃというものを平気で描いているが、Nolan以降のDCヒーロー映画は、「リアル」を基本としてしまったために、どんどんと泥沼にはまっていってしまったとわたしは感じている。


 それが明確になるのが、DCの次の作品『Man of Steel』である。
 わたしにとっては、『Man of Steel』は2013年に観た映画で一番がっかりした作品で、個人的に「コレジャナイムービーNo.1」の称号を与えている。これは、明らか、Nolanにより開発された「リアル」路線の悪影響だとわたしは断言する。あれはNolanだからこその大リーグボールだった。たとえ製作総指揮でクレジットされていようとも、残念ながら他の誰にも、真似ができるものシロモノではなかったのだ。


<終わらなかったので、その4に続く。次で終わるはず!>

 ここまで書いてきて、あ、これは違うなと自分で思ったので自白しておくが、Nolanによる『BATMAN Begins』が公開されたのが2004年。この当時、まだDisneyはMARVEL COMICを傘下に備えていない。DisneyがM&AによりMARVELを子会社化するのは2009年のことなので、Nolanが対Disneyの最終兵器として抜擢されたとするのは誤りだろう。
 でもまあ、面白いからそのままにしておきます。結果的に、まさにそうなるので。

 さて。
 現在、最強の映画監督は誰だ選手権があったとしたら、天才Christopher Nolanを代表選手に推挙する方は非常に多いだろう。ナンバーワンかどうかはわからないが、現役最強の一人であることは誰も反論しまい。 彼が最初に世界の注目を浴びた作品『Memento』は、日本国内ではまさに単館系上映という地味な公開規模だったが、世の喝さいを浴び、わたしも2回、渋谷のシネマライズへ行って満員で観られなかったことを覚えている。なんだよ、満員!? マジか―――と、とぼとぼ帰ること2回。3回目にしてようやく見れたわけで、そのせいもあって、まあ面白いけど、素直にほめてやらないもんね! ちょっと技巧に頼りすぎじゃね? とか、やや八つ当たりめいた評価しか与えていなかった。
 Nolanの、わたしが一番すごいと評価する点は、やはり物語である。脚本は、弟のJonathan(兄と違ってイケメン!)と一緒に書くことが多いようだが、基本的にNolanは、原作なしのオリジナル作品が持ち味である。これは、現代の映画産業において、非常に稀有な才能だ。ハリウッドでも日本でも、今や大半が小説やコミックなどのいわゆる「原作」が存在している映画が普通で、「オリジナル」は極端に数が少ない。そんな中で、「オリジナル」で勝負し、しかも非常に素晴らしい作品を撮れるのが、Nolanの最大のポイントである。
 ちょっとWikipediaで調べてみたところによると、Nolanはロンドン大学のイギリス文学科を出ている。日本でいえば国文学。つまり相当真面目で地味な男であることが想像される。 そんな男が『BATMAN』を託されたのだから、おそらくはかなり悩み、どうしよう? と思ったはずだ。そして、Nolanは真面目にBATMANを研究し、どうすればいいかを日夜、おそらくは弟のJonathanと話し合ったはずだと思う。たぶん、イギリス人たるNolanは、当然BATMANを知ってはいたものの、そもそもそんなに詳しくなかったはずだ。彼にとってヒーローとは、イギリス情報部員007なのだ(Nolanはいろんなところで、007が大好きと公言している)。そこで、Warnerから、David S GoyerというUSC映画学科を卒業した陽気なタトゥーだらけのアメリカ人が脚本家として送られて来た。このGoyerもまた大きな役割を果たしたのは間違いない。日夜研究を重ね、GoyerからはBATMANとはどういうものかをレクチャーされ、NolanがBATMANの映画を撮るにあたって出した結論はこうだ。

 「もし本当に、BATMANが存在していたら?」

 このことを一番基本のコンセプトとして、話を展開させることで、Nolanの真面目さとゴイヤーが代表するアメリカ的なるものが融合し、新たなBATMANサーガが始まったのである。とことんリアルに、BATMANが本当に実在する世界を描く。実にNolanらしい、真面目な結論だと思う。
 だが、まさにこの真面目さが、思いもよらない迷宮への入り口だったとわたしは思う。

 まずは、第1作の『BATMAN Begins』だ。
 すでに、BATMANといえば、かのTim Burtonによる大ヒット映画もあり、正直、何の説明ももはや必要としない。BATMANがスクリーンに登場するだけで、誰もが彼を知っている。そもそもTim Burtonの映画は非常に出来が良く、あれ以上のものを撮るのは、普通の監督ではできないだろう。事実、Tim Burtonが2作撮った後の作品は、残念ながらクソだ。まあわたしはクソゆえに、ICEMANことVal Kilmerが演じた『Forever』も、George Clooneyが演じた『ROBIN』も、結構好きではあるが、いかんせんクソである。
 そんな重圧のある中、我らが天才真面目文学青年Nolanは、考えに考え抜いた。そして、Goyerとこんな会話を交わしたことは想像に難くない。
 「……(カタカタカタカタカタ)……」
 「うぃっすー。あれ、Nolan君徹夜? 頑張るねえ。オレ、昨日の夜考えたんだけどさ、やっぱ今回の敵は初心に戻ってJokerしかないと思うんだよね。どう思う?」
 「……(カタカタカタカタカタ)……初心……か。くふ、くふふふふ」
 「(なんだこいつ気持ち悪りぃ)……じゃあ、やっぱNolan君もJokerでいいかな?」
 普通、ヒーロー映画で一番重要なのは、Villan(=ヴィラン。敵役の悪者のこと)を誰にするか、にある。だから、アメコミ文化担当のGoyerはそう提案したのだが、Nolanの答えは全く違っていた。
 「……(カタカタカタカタカタ)……いや、ぼくは今回、BATMAN誕生から書くよ。ブルース・ウェインが如何にしてBATMANになったのか。そこからだ」
 「しょ、初心に戻りすぎィーーー! なんでまた今更そんな!?」
 「……(カタカタカタカタカタ)……だってぼく、実はBATMANのことをよく知らないんだ。だから、最初から描くのさ。ぼくなりの解釈でね」
 「オイイイイイ!!! そ、そんなことしたら、新しい客も見込めるし、全く新しいヒーロー像を描けるし……ってそれだーーー!! 天才現る!!!!」

 と、おそらくGoyerは興奮したに違いない。完全に予想外だったはずだ。
 この、「~ビギンズ」「~ゼロ」とかいった、いわゆるPrequel(=前日譚)は、今では非常によくありがちな、シリーズIP作品のパターンではあるが、そもそもは、この『BATMAN Begins』が先駆けである。真面目な文学青年であるNolanにとっては、まずは自分でBATMANを再定義し、始める必要があったのだ。BATMANとは何者か。どうして強いのか、どうして悪を憎むのか。それがないと、Nolanは先に進めなかったのだと思う。
 もちろん、原作にきちんと背景は描かれている。それを大筋で取り込みながら、果たして現実にBATMANは存在しうるのかを検証していったのが、『BATMAN Begins』という映画だ。そしてそれが見事大成功に終わったことは、US国内で204M$、全世界で374M$の興行収入をたたき出したことが証明している。
 こうして真面目な文学青年であり、イギリス人であるというハンデに打ち克つべく開発した、Nolanの大リーグボール1号=『BATMAN Begins』は、全世界に受け入れられたのである。

 ただし! である。この時、Nolanがトレードオフで失ってしまったものがある。
 それは、「リアル」を追求した故に、もはやBATMANが「コミックヒーロー」以上の存在になってしまったことだ。あまりにリアルに描き、BATMANが使うさまざまな秘密兵器さえも、(ブルース・ウェインのように金に糸目を付けなければ)実際に作れるものと描いてしまったことで、「コミック=漫画」が持つ、自由度や、いい意味でのインチキさのような要素が徹底的に排除されてしまったのだ。このことが、第3作目の『The Dark Knight Rises』においては明らかな弱点として露呈してしまい、のちのDC系ヒーロー映画に非常な悪影響をもたらしてしまったのである。ああ、なんということか。やはり、大リーグボールは3号までだったのだ。

<疲れたので、再度休憩。その3……は明日にします>

 わたしが映画オタであることは、紛れもない事実であり、現状、年間35~40本ほどを劇場で見ているので、およそ月に3~4本程度見ている計算になる。まあ、ジャンルは特に限定せず、洋画・邦画・アニメと隔たりなく見ているつもりだが、とりわけわたしは、そもそも映画オタへの道を征くきっかけとなった『STARWARS』 の影響なのか、いわゆるハリウッド大作が大好物である。
 よく、映画が好きと自称する連中の中には、いわゆる単館・アート系のシャレオツ映画が好きとか抜かす勘違い野郎が多いが、そういう奴は全く信用しないことにしている。要するに、そういう奴は、「子供のころから映画を観ていない」のだ。子供にそんな小難しいシャレオツムービーが分かるはずがないわけで、たいていの場合、大学時代にモテない日々を過ごした奴が、ちょっとオレ、シャレオツですぜと意識高い系のアピールをするために、映画をその手段として用いている場合が多いのである。そしてそのアピールは、たいていの場合失敗して、あの人ちょっと暗いわとか、ちょっと話が長くてうざいのよね、と世の女子に敬遠されてしまう運命をたどるわけだ。
 サーセン。完全な偏見です。
 まあ、実際のところ、単館系・アート系作品であっても、わたしが好きな作品はあるし、「うぉー! この映画超観てえ! ってなんだよ、全然公開スクリーン少ねえええ! くそーーーWOWOWで放送されるのを待つか……」 という場合も、シネコン全盛の今日では、結構ある。でも、そういう、単館系・アート系作品が、小規模公開されるのは明確な理由がある。端的に言えば、あんま売れねえなこれは、と配給会社に判断されてしまった、ということなのだ。
 売れない、ということは、エンタテインメント業界・コンテンツ業界では、明確に悪であるが、実は売れる・売れないの最終判断は、結果的に黒字か赤字か、によって判定される。別に、100万円しか興行収入が得られなかったとしても、たとえば20万しか投資していないのならば、その作品は十分に黒字であり、「売れた」という判定が下される。逆に、50億の興行収入を達成しても、製作費に70億かけてました、とかいう作品は完全にアウトで、「あの映画はダメだったなぁ……」と言われてしまうことになる。そういう作品を撮ってしまった監督やプロデューサーには、次の仕事が回ってこなくなってしまうのがこの業界の力学である。
 なので、単館系作品は、「この作品はあんま売れねえなぁ……きっと。つーことは、あまり宣伝とか金かけられねえし、公開規模も広げたらヤバイかな」と判断された作品なわけで、セーフティバントでも振り逃げでも、とにかく塁に出ようという作品なわけだ。それはそれで、全く問題ないし、応援したくなる作品も当然ある。
 一方、わたしが愛するハリウッド大作は、完全に最初からホームランを狙っている作品だ。うまく行けばMDや多彩な権利収入で満塁ホームランかもね、みたいな大物が特に好みである。なにしろ、わたしにとって映画は『STARWARS』なのだ。わたしとしては、豪快な一発が見たいのである。

 今現在、最強のラインナップ(=IP)をそろえているのが、かのDisneyある。まるで1985年の阪神タイガースを彷彿とさせるその打線は、完全に業界を支配していると言っても過言ではあるまい。
 1番・真弓に相当するのは、近年Disneyが掘り当てた「実写童話系」ディズニーファンタジーだ。『Maleficent』や『Cinderella』の大ヒットは記憶に新しい。全世界で通用する最強の切込み隊長である。そして3番・バースに相当するのが、「MARVEL COMIC」の一連のヒーロー作品だろう。M&Aにより会社を買い取った、言わば最強の助っ人外人である。続く4番・掛布は『Frozon』『Big Hero 6』など豪快な一発をかっ飛ばす「ディズニーアニメ」であろう。そしてクリーンナップの締めを受け持つ5番・岡田に当たるのが『Toy Story』『Wall-E』『Monsters, Inc』などでおなじみの「ピクサーアニメ」である。これだけ強力な重量打線に打ち勝つことは、もはやほぼ不可能だ。さらに、とうとうDisneyは、我が愛する『STARWARS』さえも手に入れてしまった。もうね、1985年の猛虎打線に伝説の最強助っ人(……えーと、誰にしよう? ブーマーとかかな?)まで入っちゃったら、全勝優勝しちゃうじゃないの! と誰しも思うはずだ。

 そんな情勢の中で、ハリウッド映画界の雄であるWarner Brothersが黙ってやられっぱなしになるはずがない。もちろん、FOXやSONYだって、ぐぬぬ! と憤死寸前のはずだ。

 そこでWarnerは、おそらくはこんな重役会議を開いたに違いない。
 「ちっとさー、Disneyさー、あいつらちょっと、調子乗ってねえか?」
 「アッハイ、そっすね。調子に乗ってやがります、ハイ」
 「バッカ野郎! 乗ってやがりますじゃねーよ! だったらお前、タマ取ってこいや!」
 「アッハイ! タマ取ってきます!」
 「バッカ野郎! おめーが行ったって玄関先でぶっ殺されんのがオチだろうが! 活きのいい腕利きはいねえのかよ!」
 「アッハイ、活きのいい、腕利き、っすね!」
 「バッカ野郎! そうだよトンチキが! 探して来い今すぐ! 今日中に連れて来いよ!」
 「アッハイ! 探してきます! 失礼します! あ、兄貴、サーセン! ちょっとオレ急ぐんで!」
 ドタバタガチャン、とあわただしく部屋を出ていく三下。入れ替わりに、出所したばかりの若頭が入ってくる。
 「……なんすかあいつ? それよりオヤジ、Disneyをぶっ殺す件、オレに任しちゃもらえませんか? 実は前からちょっとかわいがってた野郎で、めっぽう腕の立つ野郎がいるんすよ」
 「マジか!! さすがは若頭! で、どんな野郎なんだそいつは!?」
 「……へい、イギリス野郎なんですがね、名前はChristopher Nolanっつうんですけど……なかなか活きのいい映画を撮る野郎なんですよ……」

 おそらくは、こんな経緯で、天才Christopher Nolanは、Warnerの秘蔵っ子としてDisneyを倒す役目を負わされたに違いない。もちろん、その手に渡されたのは、Warner最強の武器(IP)である、『BATMAN』だ。『BATMAN』をノーランが撮る。これがWarnerがDisneyに対抗しうる、最強のヒットマンだったわけである。いわば、大リーグボール1号を身に着けた星飛雄馬を、マウンドに送り込んだわけだ。
 このWarnerの思惑は、うまく行った。かに見えた。しかし、天才かつ技巧派で、おそらくは非常に真面目なNolanを起用したことで、Warnerはその後思いもよらない迷宮にはまり込んでしまう事になるだった……。

<長いので、一度ここで休憩。その2に続く> 
 

 前作『MADMAX: The Thunder Dome』の公開が1985年だから、既に30年が過ぎた。
 おそらくは、いわゆる「終末世界(ディストピア)」のイメージとして、全世界の様々な作品に影響を与えたあの『MADMAX』が、まさかシリーズ生みの親であるGeorge Miller本人の手によって再びよみがえる日が来るとは、わたしのような映画オタクでも、まったく想像していなかったに違いない。少なくとも私は、またGeorge Millerが撮るらしいという噂を聞いても、本当に撮影を開始して、ビジュアルが公開されるまでは、「またまた、ご冗談を。タチの悪い噂話はなしですぜ」と、一瞬も信じていなかった。しかし、それは現実だったのだ。わたしの愛する『北斗の拳』に多大な影響を与えた、あの、まさにあの! 元祖『MADMAX』大復活である。
 当然わたしは初日に観に行った。IMAXにするか悩んで、結局、TOHOシネマズのTCXスクリーンにて3D字幕版で観た。そして、大興奮したわけである。
 
 現在のデータでいうと、まずUS国内での興行成績は152M$、全世界興収は373M$に達しており、これは紛れもなく大ヒットである。今日のレートが1US$=120円ぐらいなので(円安が結構進んでるのう……)、全世界でおよそ448億円の興行収入を稼いだことになる。予算規模は150M$らしいので(Box Office MOJOより)、興収の40%程度がバックされるとすれば、劇場上映、いわゆる1次スクリーンだけでなんとか元は獲れそうなところである。当然、Blu-rayや配信での収入や、当然MDや権利関係の収入もこれから入るわけだから、無事に黒字は確実であろう。
 黒字が確実、という事が何を意味しているか。
 それは、確実に続編を作れる、ということでもある。世の『MADMAX』ファンは、安心していただきたい。
 なお、近年では洋画がことごとくヒットしない日本においても、この作品は15億を超え、十分にヒットしたといえる成績を収めている。まあ、わたしとしては20億を超えてほしかったが、年間で10億を超える洋画のヒット作が15本程度しか出ない今の国内劇場映画市場では、十分頑張ったと言ってよかろうと思う。なお、去年2014年のランキングを見ると、15億強という成績は年間ベストの7位にランクされる数字である。よかったよかった。
 
 で。
 21世紀の今、世はリメイク作品が溢れ、そのことごとくが、あまり高い評価を得ない時代である。
 中には非常に優れたリメイクもあるのに、リメイクゆえに、元の作品への思い入れの強い人々からは、「ああ、やっぱオリジナルの方がいいわ」となじられるわけで、そういう「懐古厨」という厄介な客がいる中での、今回の大復活。
 当然わたしも、『MADMAX』については、それなりに思い入れがある。実は、第1作は劇場で見ていない。年齢的に、TVでしか見ていない世代なのだが、『MADMAX2』は、現在のヒカリエが存在する、渋谷駅前の、今はなき東急文化会館に入っていた「渋谷東急」という劇場で見た。1階の渋谷パンテオンではなかったと思う。なんでそんなことを覚えているかというと、わたしは、なんという映画をどこで見たか、については、どういうわけか異常なほど記憶が残っていて、ほぼ、誰と見たかも思い出せるという、我ながら謎の能力があるからだ。まったく、記憶力の無駄遣いもいいところである。しかも『MADMAX2』をなぜ渋谷で見たかも、明確に記憶している。これは、わたしが中学の時の冬の話で、宿題でプラネタリウムを見なくてはいけない課題があって、そもそも渋谷には、同じく東急文化会館の一番上(?)にあった、「五島プラネタリウム」に用があって来ていたのだ。
 当時すでに映画オタクへの階段を順調に上っていたわたしとしては、プラネタリウムなんぞより映画が見たくて仕方なく、一緒に行った3人の友人を連れて『MADMAX2』を見たのである。
 インターネッツなる便利な手段のない当時、わたしの映画情報は、たいていが集英社刊「ロードショー」という月刊雑誌に頼っており、読者コーナーのイラスト投稿なんかもあったほのぼのとした時代だが、その中には、ダジャレめいた投稿も多く、この『MADMAX』も当然ネタにされており、中でも、当時も今もわたしが最高だと思うお葉書が、『松戸マックス』という変なイラストの投稿で、以来、わたしはずっと、『MADMAX』を『松戸マックス』と呼んでいる。なので、この中学生の冬も、友人たちとは、1階のパンテオンでやっていた作品(確か『タイタンの戦い』だったと思う。もちろん1981年版)と、この『松戸マックス』にするか、若干もめて、「いいからこっちだよ! 松戸マックス2に決まってんだろ!」と、わたしが半ば無理やり決めた思い出深い作品なのだ。

 まあ、そんなわたしの中学時代の思い出はさておき。

 今回の『Fury Road』だが、大半の懐古厨のおっさんどもにも好評のようで、興行成績は冒頭に紹介した通りである。しかし、一部のおっさんたちは、「いやー、だってインターセプターは2で爆破しちゃったでしょ」だの、やはり文句を付けないと気が済まないらしい。そんな細けぇこたぁ、どうでもいいんだよ!
 基本、MADである。狂っとる。という話なわけで、あまりわたしもガタガタ文句は付けたくない。火を噴くギターをかき鳴らすMADな野郎、その後ろでドカドカ太鼓をたたくMADなドラム隊、完全にイカレてやがる人食い男爵や武器将軍(この日本語訳は素晴らしい!) など、まさしくヒャッハーなMAD世界を再びスクリーンに描いてくれたGeorge Millerのイマジネイションはやはり一級品だと思う。
 だが、やはりわたしは、脚本を、ストーリーを、物語をもっとも重視する人間であるため、どうしてもモノ申したくなってしまうので、以下、少々お許しいただきたい。

 今回、わたしが物語上うーーーむ……? と思ってしまった点は、女性戦士フェリオサだ。彼女が如何にしてイモータン・ジョーの支配する国(?)で地位を得、そしていかなる理由で反逆を決意したか、が、非常に薄らぼんやりとしかわからない。この点が、わたしがこの映画で唯一問題視する点である。そんな細けえこたぁ……どうでもよくないのだ。わたしには。
 確かに、生まれの国(?)たる女性戦士の集団が出てきたりはするが、正直良くわからない。既にご覧になった方ならわかると思うが、イモータン・ジョーの支配は、非常に合理的で、彼は全く、おそらく唯一、「狂っていない」男だと思う。あの狂った世界において、イモータン・ジョーという男は、実に冷静で、非常に優れた統治者だったと言っていいのではなかろうか。水や食料を生産し、人々には役割=仕事を与え、ガソリンや武器は物々交換で手に入れるという、経済活動すらも回している。イモータン・ジョー、あんたすげえよ!
 イモータン・ジョーの統治は、確かに21世紀に生きる我々からすれば、非人道的で到底許されないものだとお怒りの方も当然いるだろう。ごもっとも。そりゃそうだ。わたしだって、逃げるわそりゃ。しかし、フェリオサは、反逆により「自由」を手に入れたとしても、彼女たちはその後生きていけただろうか? 正直、見通しは全くもって甘い。確実にもっともっと厳しいサバイバルが待っていたはずだ。それとも、この映画は、それでも自由は尊いということを主張したかったのだろうか?
 その辺は観た人の受け取り方次第なので、正直どうでもいい。どういう意見もアリだ。ただ、やはりわたしとしては、フェリオサが反逆を志す理由を、もう少し丁寧に語ってほしいと思った。なにしろ、計画が恐ろしくずさんで、もしあのタイミングで、マックスが現れなかったら、確実に失敗していたし、マックスが現れなくても計画は実行していたのだから、完全に運が良かったとしかみなせないのである。それでイモータン・ジョーの立場を乗っ取るとは、なんともはや、イモータン・ジョー哀れなり、としか思えない。現実的なわたしとしては、あーあ、水解放しちゃって、この後どうすんだよ……と、エンディングのテンションは若干下がってしまった。下手したら、ありゃすぐに暴動になるぞ。

  というわけで、ちょっとだけ、物語上の問題点はあるものの、各キャストの芝居は素晴らしいし、映像も迫力満点で見ごたえ十分だ。わたしは3D版を見たが、全くもって問題なし、というか、3Dによって迫力は増していたと思う。今回は、3D版で正解だ。
 なお、主演のTom Hardy は、非常にイケメンで、カッコよくマックスを演じてくれていて大満足。元祖マックスのMel Gibsonは、わたしは大好きな俳優の一人だったが、自らのDVによってすっかりハリウッドから干されてしまった。ちょっと前に、スタローン隊長に誘われて『EXPENDABLES3』には出たけどね……。何やってんだよ全くもう。オスカー監督でもあるのに、実に残念。いずれにせよ、Tom Hardyに惚れた方は『INCEPTION』か、『Tinker, Tailer, Soldier,Spy』(邦題:『裏切りのサーカス』)を見ていただきたい。どちらも非常に見ごたえのある傑作です。また、フェリオサも、物語上の文句は付けたものの、Cherlize Theron の演技は素晴らしく、さすがにオスカー女優の実力は折り紙付きだ。そのほか、ニュークスを演じるNicholas Hoult は、最近売り出し中で、こいつをチェックするなら、当然『X-MEN:First Class』『X-MEN:Days of Futur Past』が順当だが、『Warm Bodies』もなかなかイケてるのでおすすめしよう。これは、ゾンビ映画なのだが、彼演じるゾンビは、生前をびみょーに覚えていて、ゾンビである彼が襲って食べちゃった男が好きだった女子、を自分が好きだった女子と思いこんでしまい、健気に守ろうとする(いや、あんまり守ってないな)お話で、きちんとした原作小説のあるちょっと変わった物語だ。興味があればぜひ。ほかにも、レニー・クラビッツの娘であるZoe Kravitzも出てるし(この娘も『X-MEN:First Class』にエンジェル役で出てる)、『Transformers: Dark of the Moon』に出演してあまりの下手さに酷評されたRosie Huntington-Whiteleyや、かのElvis Presleyの孫、Rilley Keoughなんかも出演しているので、何気に豪華キャストの映画なのでありました。
 あ、ここまで書いたところで、今知ったのだが、Wikipediaによると、どうやら前日譚がグラフィックノベル化されているみたいですな。そして映画の続編も、フェリオサの過去を描く(?)らしいね。もう、早く言ってよ!

 というわけで、結論。
 『MAD MAX:Fury Road』は、絶賛というほどではないにしても、かなり楽しめる映画でありました。ご興味のある方は、迫力の映像と、MADな世界観に満足するだけではなく、ぜひ、物語を考えながら見てほしいと思います。あと、たぶん、シリーズの1作目と2作目は見ておいた方が楽しめる……と思います。(※1作目のシーンのフラッシュバックが結構入るので、観てない人には意味不明だと思う)

↓ ちょっとだけ取り上げた『Warm Bodies』の原作小説。
 また小学館文庫か……でも、この表紙は、ナシだ。なんでこんな表紙にしたんだ?

 わたしは小説原作を読んでないのでなんとも……↓こっちの映画だけでいいと思います。
 ――あれっ!? 発売元が……マジか……知らなかった……。すげえオチが付いたわw
ウォーム・ボディーズ [Blu-ray]
ニコラス・ホルト
KADOKAWA / 角川書店
2014-02-07




 

 わたしは正真正銘、男である。中学高校は男子校で過ごし、好きなマンガは何かと聞かれれば、そんなの『北斗の拳』に決まってんだろうが! と答える、おっさんである。
 そして、わたしはかれこれ20年以上、いわゆるエンターテインメント業界、コンテンツ業界に身を置いているわけだが、仕事としてもそうだし、個人的にも、ずっと、「女性ファンをがっちり抱える」コンテンツに非常に興味があった。何でそんなに人気があるんだ? という単純な疑問である。なので、わたしはこれまで、少女マンガを読み漁って勉強してみたり、一時はBLも読んでみたし、ハーレクイーンすら読んだことがある。実際に読んでみて、まずどんなものを知ってみるのが重要だと思うからそうするわけだが、さすがにBLなどはまったく理解の外にあるわけで、そういうときは、実際のファンの女性に話を聞いてみないと、消化できない場合がある。まあ、そういうものは、そもそも最初から、ファンの女性に「どれ読んでみればいいかな? お勧めはどの作品?」と聞いてからはじめるので、いきなり自己流で勉強をしても、埒が明かないものだ。幸い、わたしの周りには仕事柄そういう「熱心なファン」がたくさんいるので、この分野ならあの人に聞いてみるか、みたいな、わたしの脳内にはオタク生息マップが出来ているので、意見を聞く人材には事欠かない状況でもあった。
 
 で。
 わたしが2010年から調査を始めて、完全にミイラ取りがミイラになっているカテゴリーがある。それが禁断の王様(女王?)カテゴリーに属する『宝塚歌劇』である。実は、宝塚に至る前に、わたしがはまっていたカテゴリーがあった。それは、いわゆる「2.5次元ミュージカル」と呼ばれるもので、要するに、コミックを原作としたミュージカルで、中でも最大規模を誇り、一番初めの公演から既に10年以上も世の女子を熱狂させているのが『テニスの王子様ミュージカル』、通称『テニミュ』だ。なお、マンガが2次元、そして生身のミュージカルが3次元、ということで、両者が融合しているために「2.5次元ミュージカル」と称されている。
 わたしが『テニミュ』を初めて観たのが2007年。週刊少年ジャンプを30年以上読み続けているわたしは、無論のこと原作である『テニスの王子様』は知っているし、そのミュージカルなるモノがやけに人気だと言うことも知っていた。ならば一度見てみたいものだと、わたしのネットワーク内に存在する『テニミュ』に足しげく通っている女子を探し、今度一緒に連れて行ってくれ、と頼んで、それから数ヵ月後にやっと連れて行ってもらったのが始まりだ。
 結論としては、驚いた。そして面白かった。なんだよ、すげえすげえ、これは面白い、と思った。イケメン学芸会と揶揄されていた当時、実際に観てみると、確かに歌などは、冷静に聞くとこれはひどいwという場合もあるが、キャストの頑張っているさまは、やっぱり生で観ている観客にもしっかり伝わるもので、ははあ、なるほど、これは人気があるのもうなずける、と納得できるものであった。
 なお、わたしを連れて行ってくれた女子によると、「下手なことはもちろん十分に分かっている。けど、なんというか親の気分になるっていうか、頑張れって思えてくるの」という事らしい。なるほど、いわゆる母性本能をくすぐるものと理解していいのかもしれない。というわけで、わたしは『テニミュ』にその後10回ぐらいは行ったと思う(「DREAM LIVE」、通称ドリライ2回含む)。
 このような背景からわたしは、俄然「ミュージカル」というものに興味を持ち、その後いろいろなミュージカルを見るようになるのだが、そこで立ちはだかったのが、誰もがその存在を知っている『宝塚歌劇』という巨人だ。それまでわたしは、wowowでの放送で何度か『宝塚歌劇』の公演を観たことがあったが、正直、ちょっとピンとこなかった。やはり生でないとダメかもな、と思ったわたしは、なんとしても「ヅカ」を一度生で観てみたいと熱望し、これまたわたしのネットワーク内に存在する、ヅカファンのお姉さまたちにコンタクトを取ったのである。「おれ、一度生でヅカを観てみたいんすよね」、と。
 やはり、自分が大好きなものに興味を持ってくれると、誰でも嬉しいものだと思うが、わたしがお願いしたお姉さまは、ごくあっさりチケットを用意してくれ(思えばすげえいい席だった)、わたしのヅカ探求の道は2010年1月に始まったのである。最初の衝撃は今でもはっきり覚えている。わたしのヅカ初体験は、星組公演で、そのときの主役である、いわゆるTOPスター柚希礼音さんに完全にFall in LOVEしてしまったのだ。
 たぶん、わたしが柚希さん(愛称:ちえちゃん)に感じたカッコよさは、ヅカファンのお姉さまたちが感じるものとはちょっと違うんだと思う。わたしは、あくまでちえちゃんを女性として愛しており、ちえちゃんの醸し出す男オーラも、あくまで女性の魅力の一部として受け取っていた。わたしにとってちえちゃんは、あくまでも完全に女子なのだ。

 はっ!? いかん!! ちえちゃんのことを語りだすと96時間ぐらいは必要だから、この辺でとめておこう。ともかく、First Contactから5年ほどが過ぎたが、今ではわたしは、年間7~8公演ぐらい観にいくほどのヅカファンになってしまったわけである。

 で、『エリザベート』だ。


 ファンなら誰でも知っているが、そうでない人はまったく知らないと思うのでちょっとだけ解説しよう。『エリザベート』というミュージカルは、元々ウィーンで初演がなされたドイツ語ミュージカルである。それを日本語化したものなのだが、日本の初演は宝塚歌劇なのである。1996年の初演以降、今のところ8回再演され、公演回数は通算800回、観客動員200万人を突破した、『ベルサイユのバラ』に次ぐ人気タイトルと言っていいだろう。その後、2000年からは男性キャストを交えた東宝ミュージカル版も、何度も再演されており、非常に高い人気を誇るコンテンツとなっている。
  わたしは、ヅカファン暦5年の、まだまだ駆け出しの身分なので、『エリザベート』という作品が高い人気を誇っていることは知ってはいたものの、宝塚版を初めて観たのは、2014年版の花組公演だ。花組の新TOPお披露目となるその公演は、わたしはほかの公演を知らないので、すさまじくカッコよく大満足だったが、どうやらベテランのヅカファンのお姉さまたちから見ると、まあ、みりおちゃんのトート様はかわいかったわね、まあいいんじゃない? 程度の扱いらしい。そうなんだ、マジか、と歴戦のお姉さまたちの厳しい目には、ただただ敬意を表するばかりである。(注:みりおちゃん=明日海りおさんという花組TOP男役、トート様=ドイツ語のDer Tod。英語で言うとDeathの意味。エリザベートの主役たる冥界の王。恐ろしくカッコいい)

 とりあえず、『エリザベート』という作品が、非常に曲もよく、ビジュアルイメージもすばらしい作品であることは、2014年に認識した。これは面白い。
 そして2015年、今度は東宝版の再演が始まり、まったく同じ話を、男性キャストを交えたものとしてみる機会を得た。そして昨日行ってきたわけである。

 キャストを見て、わたしは、おお、マジか! と嬉しくなったことがある。
 それは、主役であるエリザベートと、もう一人の主人公、冥界の王トート閣下の二人が、わたしのよく知る役者だったからだ。まず、エリザベートの蘭乃はなさん。彼女は、まさに2014年にわたしが観た花組公演でもエリザベートを演じた女優だ。わたしが見た花組公演は、まさに彼女の退団公演だったのだ。退団後も、持ち前の可愛さとダンス力を武器に、女優として活躍中だが、わたしが非常にお世話になっているヅカファンのお姉さま曰く、まだまだね、今回の公演はWキャストでエリザベートを演じる花總まりさんのほうが断然上よ、とおっしゃっていたので、世間的にはそうなのかもしれない。が、昨日の公演での蘭乃はなさんは、宝塚版とは違う発声で、一部苦戦している部分もあったのは確かだが、宝塚版とはまた別のエリザベートを見事に演じきっていたと思う。十分にすばらしかった。
 そして、トート様である。宝塚版では当然TOP男役の「女性」が演じていたわけだが、今回トート様に扮するのは、城田優という若手俳優である。この男、世間的にはまだ認知が低いかもしれない、が、わたしにとって彼は、『テニミュ』における2代目手塚部長なのだ。わたしは彼が手塚部長を演じた公演を生で観ていないのだが、わたしが『テニミュ』道にはまる前に、指南してくれた女子から「これを観ておいてください。予習として。」と渡されたDVDが何枚もあって、その中で、おお、こいつ、抜群に歌がうまいな、つーかデカイ! そしてカッコいいじゃん! と思っていたのがまさに、城田優だったのである。わたしが観たDVDの中では、2005年の氷帝学園との試合の公演が一番クオリティが高く面白かったが、その時の手塚部長役が、城田優だ。一人だけ抜群に歌がうまく、一人だけ頭ひとつデカイ。城田優はなんと身長190cmもある。とにかく目だってカッコよかったのを鮮明に覚えている。なお、この2005年の公演は、今観てみるとすごい豪華キャストだ。現在すっかり人気俳優となった、斎藤工も出演している(カッコいいが歌は下手なのが残念)し、ライバル校の部長、跡部役は加藤和樹が演じている(彼は歌もうまい)。加藤和樹はその後、仮面ライダーに出たり、現在ではミュージカルにも結構出ている俳優で、知名度はまだ低いかもしれないが、非常に人気は高い。
 そんな、テニミュ時代から抜群に歌のうまかった城田優が、トート様を演じるとなれば、わたしとしてはもう、あれから10年……よく頑張って努力してきたのう……と、もはや孫を愛でるおじいちゃんのように思わざるを得ない。だから、昨日はもう、楽しみで楽しみで仕方なく、勇んで劇場に向かったのでした。
 そして、劇場でキャストを見てみたら、もう一人、テニミュOBを見つけた。エリザベートの息子である、ルドルフ皇太子を演じた古川雄大君。彼もまた、4代目青学メンバーとして、天才不二周助を演じた経験を持ち、わたしは彼の出た公演を生で観ている。
 このように、わたしとしては本当に久しぶりに観るキャストが、今を懸命に、おそらくは不断の努力を続けてきた姿を見ることができて、その意味でも大変感慨深く、とても楽しめたのであった。また、今回は、ルキーニを演じた山崎育三郎という才能あふれる俳優も知ることが出来た。彼もいいね、すごくいい。
 ミュージカルというものは、今の日本では一部の熱心なファンに支えられてはいるものの、メジャーコンテンツと言っていいか微妙な位置にあるエンターテインメントだが、今後、才能あふれる俳優たちがどんどん育ち、もっともっと、メジャーな王道コンテンツになることを祈ってやまない。

 というわけで、結論。
 東宝版『エリザベート』は、すっごい良かったです。
 もう公演は終わってしまうが、また再演の機会があれば、ぜひ、劇場へGO!!


↓ こちらは宝塚版。みりおちゃんは可愛い。そして可愛いは正義ッ!
『エリザベート ―愛と死の輪舞―』 [Blu-ray]
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宝塚クリエイティブアーツ
2014-11-06

 ライトノベル、という言葉が発明されておそらく10年ぐらい経つと思うが、わたしがかつて営業や編集として携わっていた頃は、そういう言葉はなく、わたしが書店向けの注文書なんかを作るときは、「ティーンズ文庫」と称していた記憶がある。
  わたしが携わっていたレーベルは、わたしが営業部に異動になった当時は、首位の富士見ファンタジア文庫とは大きく離されていて、シェア3位、というかレーベル自体も5つ(?)ぐらいしかなかったが、その後1位に上り詰めることができ、レーベルが乱立した現在でも1位を堅持している。これは自慢じゃあない。これは、わたしの誇りだ。

 で、何が言いたいかというと、わたしは映画や小説が大好きだが、ライトノベルもイケる口ですぜ、と主張したかったわけです。 むしろ、おそらくはライトノベルのことならば、日本国内で最も詳しい人間の一人であろうとも思う。いや、だってそれが仕事だったし。回りくどくてサーセン。

 というわけで、ライトノベルと呼ばれる小説群にも、わたしは全く抵抗がないわけだが、正直に言えば、今現在、わたしをして感動せしめる作品は、ごくわずかしかない。 もちろん面白いシリーズはあるし、新刊が出れば必ずチェックする作家はいる。が、非常に少なくなってしまったのが現在のライトノベルと呼ばれる市場だ。
 その背景には、わたしが歳を取ってしまったという、残念な事情も深く影響していると思う。まぎれもない事実として。でも……アニメでもそうだけど……残念ながら、質の低い、クソつまらん作品が大半だというわたしの嘆きに対して、賛同する方は多いのではなかろうか。

  そんな中、先日タイトルに魅かれて読んでみた作品が『戦うパン屋と機械じかけの看板娘』という作品だ。ホビージャパン文庫というレーベルから出ている作品で、著者はSOWと名乗る良くわからん作家。そして「看板娘」は、「オートマタンウェイトレス」と読む。うーーん……なんというか、ムズイ世の中だ。



 わたしが編集部に在籍してた時は、新人のデビューの際、「あのな、ペンネームってのはさ、たいてい一生使うんだぞ? ふざけたペンネーム使うと、ホントに後悔するぞ。本当にそれでいいのか?」と何度も指導したことがあるが、今はそんなことはないのだろうか。ともかくSOWというペンネームは、わたしが担当編集だったら1ミリ秒で「ふざけんなバカ」の一言で却下だ。

 この本を買ってみた理由はただ一つ。わたしもパン屋になりたいからだ。
 あらすじはごく簡単。元軍人のこわもて男が、除隊後パン屋になり、奮闘するが、そのこわもてぶりから客がまったく来ない。そんなある日、超絶美少女がウェイトレスに雇ってほしいとやって来て――まあいろんな事件が起きるわけだ。

 いいじゃない。プロット的には、わたしとしては大いに気に入った。
 わたしもパン屋を始めたら、超絶美少女を雇って、日がなパンを焼きながら、たまに軽くセクハラして、キャッキャウフフという毎日を送ってみたいものだ。
 
  というわけで、早速読み始め、およそ2時間で読み終わっってしまった。話が薄っ! まあ、ライトノベルという事で、その辺は別に全く問題ない。しかし、うーーーーん……わたしが担当していたら、いくつか書き直しを命じるポイントがどうしても目についてしまった。

 まず、一番大きいポイントは、主人公ルート・ランガードについて。
 なんだよ、イケメンじゃねーか! イラストでは、彼は全く普通のイケメンであり、「こわもてゆえに客が来ない」という基本設定がまったくもって嘘くさいというか、全然活きない。おそらく、わたしが担当編集だったら、この点は何とか別の方法を考えただろう。
 例えば、そうだなあ、いっそ戦争によって顔や腕とか、体の一部をサイボーグ化してるとか? あるいはもっとビジュアルイメージをひどくして、例えば看板娘がやってきた後に、髪やファッションを磨かれて、実はあらやだイケメンじゃない! と変身させてもいいかもしれない。元軍人でこわもての店主、というと、わたしが真っ先に思い出すのは、『キャッツアイ』の海坊主なわけだが(おっさん趣味でサーセン)、あそこまでいくとちょっとライトノベルとしてはキツかろうし、ルートが若い青年であることは、ストーリー上意味があるので、怖いおっさん化させるわけにはいかないことは理解できる。いずれにせよ、「こわもてゆえに客が来ない」設定はアリなだけに、もうちょっと工夫していただきたいと思った。やり方なんていくらでもあるだろうに、もったいないことだ。

 もう一つは、やって来る看板娘の言動だ。
 とある事情があって、看板娘は主人公が好きで好きでしょうがない状態で、それは全く問題ない設定だが、性格付けが、もう少し工夫が欲しかった。看板娘の正体は、読者からすれば最初に主人公のパン屋にやってきた時からバレバレなので(そもそもタイトルの、看板娘の読み方からしてネタばれしとるがな)、もっと、それっぽい性格付けが出来たはずだし、話の納得性を増すことも出来たはずだ。何しろよくしゃべるし、真の正体の割りに、いやに世の中に詳しいし、なんというか、まあ、くだけすぎ? なのだ。これってどうなんだろうと、わたしとしては普通の読者の意見を聞いてみたい。わたしだったら、たぶんもっと無口にしたほうがいいんじゃね? という指摘をしていただろうと思う。いわゆるツンデレはもはや古すぎるかもしれないが、ここまでおしゃべりだと、どうも違和感を覚えてしまう。もうちょっと、ミステリアスな雰囲気、あるいは、世間知らずのイメージが欲しかった。
 ただ、そうなると、看板娘として店の再生を図るに当たって問題が出てしまうかもしれない。彼女は、愛する主人公のために非常な働きをして、店のアピールを行い、主人公の作るパンのうまさを大々的に宣伝することで、店を救ってくれる展開なので、その時無口キャラだとちょっと厳しいかもしれない。ただ、その役は、主人公の店の唯一の常連である少年に振ってもいけると思うのだが。超絶美少女は、無口でも大丈夫……なんじゃねえかな、と無責任に思った。

 というわけで、Webでいろいろな人のレビューをチェックしてみたが、わたしと同じような指摘をするレビューはとりあえず見当たらない。もっと、前半の、店再生で主人公と看板娘がキャッキャウフフな展開を望む声が多く、物語は後半、ちょっとしたバトル展開になるのだが、その点にみな不満を抱いているようだ。わたしは逆に、それは全然気にならなかったが。

 結局、いろいろなレビューを見て思ったのだが、やはり、わたしは既に、想定読者から外れているんだろう、という、ごく当たり前の結論に至った。まあ、おっさんだからなあ。そりゃ仕方ねえな。
 ただ、やっぱり最後に一言モノ申しておきたい。
 編集者は、もっともっと努力すべきだ。今は、いわゆる「なろう系」と呼ばれる、アマチュアの作品が星の数ほど存在し、読者を獲得している。そしてその星屑の中から作品を釣り上げて、本にする形が爆発的に増えている。そんな状況で、ホントにいいのか。「アマチュア」に負けてどうする? 「プロ」なら「プロ」らしく、腕を見せてほしい。やっぱこっちのほうが面白れえ! と、読者に言わせる努力を、24時間考え続けていただきたいものだ。ああ、完全にわたしも老害かもな……。

 というわけで、結論。
 『戦うパン屋と機械じかけの看板娘』は、まあまあ面白かった。
 が、新人の応募作なら許されるレベル、だと思う。新人が書いたものなら、十分金賞ぐらいは取れると思う。が、プロの作品としては……まだまだ、だね。

 ↓既に2巻も出ています。やっぱりまあまあ面白いです。でも、ちょっと、大きな展開への引きが強すぎね?




 

 今回取り上げる本は2つ。
 一つは、『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』。角川書店発行の極めて面白い良書で、単行本が2012年に出た当時、読んでみたらすげえ面白く、今年になって文庫になったので再び読んでみたらやっぱり面白かった。思わず電子書籍版も買ってしまったほど、この本は面白い。
 もう一つは『人工知能 人類最悪にして最後の発明』。今年の6月にダイヤモンド社から出たばかりの本で、先日、わたしが愛してやまない電子書籍ストアBOOK☆WALKERにて、コイン増量キャンペーンで何買おうか探してた時にちょっと気になって購入した。結論から言えばくそつまらないうんこ本で、リアルの紙の本だったら即資源ゴミの日にサヨナラ確定だが、残念ながら電子書籍で購入したので、文字通りケツ拭く紙にもなりゃしない、トンデモ本だった。

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか (角川文庫)
NHKスペシャル取材班
KADOKAWA/角川書店
2014-03-25


人工知能 人類最悪にして最後の発明
ジェイムズ・バラット
ダイヤモンド社
2015-06-19


 まずは、『ヒューマン』から。
 この本は、ちょっと調べてもらえばすぐわかる通り、実はNHKスペシャルで放送された番組本だ。なので、著者表記は「NHKスペシャル取材班」となっている。この本があまりに面白くて、放送を見ていなかったわたしは、オンデマンドで超期待しながら見たのだが……正直、放送ではかなりバックグラウンドストーリーが端折られているというか、伝わり切れず、断然本を読んだ方が面白いことが判明した。
 この本を読んで、わたしが初めて知って、マジか、へえ~、そうなんだ、えーー、なるほどねえ~……などと思った、面白知識をいくつか列挙してみよう。

 ■遺伝子が99%一致するチンパンジーと我々ホモ・サピエンスの違いはどこにあるのか?
 端的に言うと、どうやら「未来を想像できる能力」がホモ・サピエンスには備わっている点が決定的に違うらしい。これは、脳の容量の違いがもたらしたものなのかもしれないが、事実として、チンパンジーは「瞬間記憶」が非常に発達していて、パッと見たものを一瞬で記憶できるらしいのだが、それはチンパンジーが、今この瞬間だけを生きているから発達した能力らしい。今しか生きてないから瞬間記憶が発達したのか、瞬間記憶能力があったから、今しか生きられないのか、どっちが先か良くわからんけど、そういう事らしい。
 紹介されている実験エピソードによれば、チンパンジーは、我々と同じように、「助け合う」行動をとることがあるんだそうだ。ただし、それには条件があって、例えばチンパンA君は、別のチンパンB君に、「ちょっとその棒を取ってくんない?」という意思表示をすることが必要で、それがあれば、B君は「あいよ」と渡してくれるらしい。
 が、しかしその何らかの意思表示がない限り絶対にチンパンジー同士でお互いを助けることはないんだそうだ。
 一方、我々ホモ・サピエンスは、意思表示がなくても、「あー、あの人困ってんなー。この棒があればいいんじゃね? はい、どうぞ。使えば?」と、「自主的に他者を助ける」ことができる。
 この違いは何なのか。
 この本によれば、要するに我々は、「他者を助けることで、のちのち自分も助けてもらえるかもしれない。他者の利益は自分の利益になりうるかも」という未来を想像できるから、他人を助けるんだそうだ。まさしく「情けは人の為ならず」ってやつが、我々を人間足らしめている要因の一つらしい。へえー。マジか。なるほど、そうかも。って思うよね。この話に至るまでのストーリーが非常に明快で、実に面白い。
 
 ■我々ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の運命を分けた鍵は何だったのか?
 誰もが知る通り、我々ホモ・サピエンスは、現存している人類の最終勝利者で、実は我々よりも前に発生しているネアンデルタール人や北京原人、ジャワ原人などの先行人類が存在していたにもかかわらず、彼らはすべてことごとく絶滅してしまった。なぜ、我々ホモ・サピエンスは最終勝利者になりえたのか。
 この本によると、どうやら我々は、物を「投げる」ことを偶然だか何かで発明したことが、大きく影響しているらしい。 「投げる」という行為は、残念ながら、既に主にヨーロッパ方面で繁栄していたネアンデルタール人にはできない芸当だったらしいのだ。それには骨格上の問題や、それまでの生活習慣が影響していて、寒冷地であるヨーロッパに定住していたネアンデルタール人は、その気候に対応すべく、毛深くなったり、筋肉量も増加して、一言でいえばゴッツイ身体つきに進化していった。なんでも、もし今、ネアンデルタール人がいれば、余裕でオリンピックメダリストになりえた身体能力を備えていたらしい。そして、主に狩猟による生活だったのだが、獲物もマンモスなどの大型獣を団体で狩っていたようだ。その武器は、棒や槍めいたもので、基本的に、体力にモノをいわせた、殴る・刺すという近接戦闘しかありえなかったそうである。 
 しかし、やがて氷河期が訪れ、獲物も少なくなり、獲物も彼らもどんどん南下して、イタリアやスペインといった地中海方面や、あるいはトルコやシリア・イラク方面に住処を移動していくことになる。
 面白いのは、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは、同時期に生きている時期があって、確実に、今のイラク・シリアあたりで出会っているんだそうだ。接触があったのは間違いないという証拠も出土している。その時のホモ・サピエンスは、まだ出アフリカを果たしたばかりのルーキー人類で、お互い、「なんだあいつら。変な生き物だなー」と思ってたはずだとこの本には書かれている。おそらくは、基本的には不干渉の状態であっただろうが、交配があった可能性もあるし、獲物として食われていたこともありうるようだ。ただし、お互いを殺しあう戦争状態にはなかったようだ。
 つまり、ホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人を殺戮して絶滅させたわけじゃない。いわばネアンデルタール人は環境変化に対応できず、勝手に絶滅したのだろう、ということらしい。
 その環境変化が、いわゆる氷河期だ。大型の獲物が減り、動きのすばしっこい小動物しかいなくなってしまった結果、殴る・刺すの攻撃しかできないネアンデルタール人は狩猟ができなくなってしまったわけだ。獲物が向かって来れば、タイミングを合わせてぶん殴れるかもしれない。けど、大キック・大パンチだけじゃ、ちょこまかと逃げ回るちっこいネズミとかウサギは獲れないのですよ。
 一方我々ホモ・サピエンスの場合はどうだったか。
 それを解くカギは、とある遺物から判明する。それは、ホモ・サピエンスの各地の遺跡から数多く発掘されていて、どうも共通した目的のための謎アイテムで、なんか、先っちょに引っ掛けるフック的なものがあって、少し湾曲してて、反対側は、握り部分なのか、ちょっと細くなってて、持ちやすくなっている。
 考古学者たちは考えた。一体こりゃなんだ、と。で、おそらく、どこかでこんなドラマが展開されたのだろうと想像する。
 「……おっと、君、まだいたのか」
 「アッハイ、どうしてもわかんねえんですよね……なんなんでしょ、これ。」
 「HAHAHA! そんなこと、2万年前に行かないとわかるものか! じゃ、わたしは
  これからB'sグリルで妻と食事なんで先に帰るよ」
 「アッハイ。お疲れっした―……なんなんだあのおやじ。……しっかしこれって……」
 と悩める若き研究者がいたんだろう。そして彼は、偶然発見する。
 「はーーー。この先っちょのフックがなあ……くっそうわかんねえ……おらよっ!
   いえーい! 命中!」
 と、フックにボールペンを引っ掛けて、ひょい、とぶん投げてみて、はたと気づく。
 「……まさかこれって……これだああああーーーー!!」
 ひらめいた彼は、B'sグリルへ車でぶっ飛ばす。そして、主任に興奮しながらこう伝えたに違いない。
 「主任ーーー!!」
 「な、なんだなんだ、どうしたんだお前!?」
 「わ、わかりました!! オレ、超わかっちゃいました!!」
 「だからいったい何の話を――」
 「これっすよ!! これは投擲具です。間違いないっす。槍を投げるためのアイテムっす!!」
 「はあ? 何言ってんだお前!?」
 「だから、こうやって使うんすよ!! ちょっと失礼! おらよッ!!」
 ズドーンと奥さんの顔のわきに突き刺さるフォーク。超ドヤ顔の若き研究者。シーンと静まり返る店内。
 「ね、わかったっしょ!? これ、投擲具に間違いないっす!!」
 「……(わなわな)……天才現る……それだ―――!!!」

 みたいな。
 まあ、これは100%わたしの妄想だが、要するに、物を投げることを発明(?)し、そのための道具まで開発していたわけで、このことにより、小型の獲物も狩ることができるようになって、氷河期を乗り越えられたらしいのである。これは、発掘された石器や動物の骨から、ほぼ確実だろうと証明されているようだ。

 というわけで、この本は、いちいち、こういう想像を駆り立てるエピソードが満載で、とにかく最後まで飽きさせない、素晴らしい本である。もうすでに、十分以上に長くなってしまったので、ホントはもっと紹介したい面白知識がいっぱいあるんだけど、本書の目次構成を紹介するに留めておこう。なお、わたしは、この本の話だけで5時間は熱く語る自信がある。とにかく面白い!!

 『ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』 目次
 はじめに 心――この不可思議なもの
 第1章   協力する人・アフリカからの旅立ち ~分かち合う心の進化
 第2章   投げる人・グレートジャーニーの果てに ~飛び道具というパンドラの箱
 第3章   耕す人・農耕革命 ~未来を願う心
 第4章   交換する人・そしてお金が生まれた ~都市が生んだ欲望のゆくえ
 おわりに なぜいまヒューマンなのか

 おそらく、この本がこんなにも読みやすく、優れているのは、元々が映像コンテンツであることが深く影響しているのだと思う。つまり、TV番組だけに、視聴者を飽きさせないように「ストーリー」の骨組みがきっちりと組まれているのだ。このことは、小説であろうと、学術論文であろうと、あるいは日常の会話や、ビジネスでのプレゼンであろうと、きわめて重要なことだ。基本的に、「こいつ、何言ってんだかわからねえ」という話や文章は、ほぼ確実に、話している本人・書いている筆者も、自分の言いたいことが分からない状態にいると考えていいと思う。
 わたしは大学院で、学術論文を書く訓練をみっちりと、それはもううんざりするほど受けたが、伝えたいことを、きちんと順序良く、場合によっては興味をひくために先送りにしたり、説明の順番を変えたりして、骨組み=構成をしっかり設計しておくこと。いわゆる「起承転結」が文章やコミュニケーションにおいて一番重要だとわたしは思っている。それがこの本はきっちりとしているので、非常に優れた良書だとわたしは思うのである。
 しかも、内容面においても興味深いエピソードばかりであるし、それを綿密な取材を通して説得力を付加していることも、読み物としての完成度を深めている。
 
 で。
 一方の『人工知能 人類最悪にして最後の発明』。
 ……正直、もうどうでもよくなってきたが、文章としての構成やストーリーがまったくなっていない、というのがこの本をクソにしているのが一つ。
 もう一つは、やはり内容だ。あることを主張しようとして、「こいつ、何言ってんだかさっぱりわからねえ」と見做されてしまう奴が陥る典型的な症状だが、視野が狭く、自説を疑う事をしない。これってホントかな? と振り返らず、一直線に自分の主張を繰り返す。これもまた典型的なトンチキ野郎の症例の一つだ。
 言ってみれば、「やべえ! AI が人類を破滅に導くんだ! AI やべえ! スカイネットどころじゃねえ!」と、どこかの掲示板にしつこく書いているようなもので、「ははあ、こいつは重症だ」としか、残念ながら読者には伝わらない。実に、読んでいてイラつくというか、こいつ、ホントただのオタク野郎だな……としか思えない。視野が狭いというのは、わたしが最も嫌う「人間力の低さ」を表明するポイントの一つだ。実にうすっぺらい。

 とはいえ、だ。実はわたしも、こいつが繰り返し言う「AIが人類を滅ぼす説」にはおおむね同意見ではある。それは、いわゆる技術者と呼ばれる奴らには、「人間力が低い」連中がやたらと多いためだ。だから、わたしならこう言うだろう。「直接手を下すのはAIかもしれない。しかし、人類を滅ぼすのはAIを開発しているゴミ人間どもだ」、と。
 これまで、いろいろなシステム導入の際に、いろいろな技術者とよばれるSE連中と仕事をする機会があったが、ろくな奴がいなかったのは我が不幸だ。もちろん、全員じゃなかろうと信じたいし、そんなことないぜと反論されれば、まあ、そりゃそうでしょうな、と認めざるを得ないが、やはり、技術者やSEに限らず、現状の人類の中で圧倒的多数なのは、わたしが嫌悪する、視野の狭い「未来を想像」できない人々だ。
 思い出してほしい。我々とチンパンジーはどこが違うのかと言う話を。なんとも皮肉なことに、人類は科学技術を発展させる過程で、一番重要なものを失いかけているのかもしれない。目先だけしか考えない生物になりはてたとき、おそらく人類は滅びるのではないか。

 『ジュラシック・ワールド』に関するエントリで触れた、DNA工学博士の悪党の話は、まったくもってそこらじゅうにある。今や、たいていのサラリーマン、たいていの技術者が、自分が行っていることが、何をもたらすのか、その先を想像していない。しているんだろうけど、実に浅い。実に近視眼的だ。そういう、「人間力の低い」者たちが自らを破滅に導くAI を作ってしまい、人類を滅亡に追いやるのだろう。なので、結論としての『AI が人類を滅ぼす』という意見に、わたしも同意する。
 『人工知能』の著者が語るところによると、要するに、AI は目的のためならば何でもやるわけで、その手段の選択に人間的な、禁忌やためらいは存在せず、一瞬で最適(=おそらく最も効率がいい、というべきか)な手段をとるはずだ、そしてその選択は、人類にとって必ずしも幸福なものではないだろう、と主張している。まあ、そりゃそうでしょうな(なお、正確に言うと、この本の著者が主張しているのは、高度なAI を作るとそいつは自分で自分を進化させて、超AI になり、それが人類を滅ぼす、と言っている)。

 しかしもし、この著者が、あるいはAI 技術者たちが『ヒューマン』を読んでいて、人類を人類足らしめるものや、これまでの人類の進化の過程を少しでも勉強していれば、人類滅亡という未来は回避できるかもしれない! と思うはずなのに、実に残念だ。

 結局、AI は人間が生み出すものだ。もちろん、『Avengers:Age of Ultorn』で示されたように、いかな天才トニー・スタークであろうとも、思わぬものができてしまうかもしれない。だから、まずはAIを作る前に「人間」とは何か、という事を学んでほしいものだと、心から願うばかりである。
 ホント、技術者を名乗る奴には、とりわけろくな奴がいないというのは私の実感かつ偏見だ。……とあるクソ会社の代表取締役社長を務めるトンチキ小僧も、まずは『ヒューマン』を読んで勉強した方がいいと思う。あんた、絶望的に視野が狭いからな。王の器に非ずと思うよ。

 というわけで、おっそろしく長くなってしまったが、結論。
 『ヒューマン なぜヒトは人間になれたか』は非常に優れた良書であり、万人にお勧めしたい。
 そして『人工知能 人類最悪にして最後の発明』は……まあ、ご興味あればどうぞ。オラ知らね。


↓わたしはこの映画はかなり傑作だと思ってる。ハーレイ君の「一度も瞬きをしない」ロボットになり切った気合の入った演技は注目。
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 会社で淹れたての美味いコーヒーが飲みたい。
 突然そう思ったのが2014年の3月だか4月の話。

 ならば淹れればいいじゃん。
 当然そう考え、ドリップマシンを買うことにした。 
 もちろん、経費節減の折、経費で買う事はあり得ないし、何よりこれはわたし個人の問題なので、これまた当然のことながら、自分で買った。まあ、電気代ぐらいは会社に持ってもらおう。勝手に使わせていただくッ!

 というわけで、いろいろ調べてみた結果、最初は、CMでおなじみの、カプセル抽出型のシャレオツデザインのアレにしようと思っていた。しかし、ひとつ、世の中的には常識なんだろうけど、わたし的にはへえ、そうなのね、と初めて知ったことがある。

 わたしのドリップマシンに対する印象は、
 「淹れたては美味いかもしれないけど、時間がたつと煮詰まっちゃうのよね……」 というもので、ポットはガラス製でずっと電源が入っててじんわり温めつづけているものだった。基本的に、アメリカ映画で刑事が部屋に入ってくるなりコーヒーをマグに入れてグビッと飲み、「かーーホントいつ飲んでも泥の味しかしねえな」的な感想を漏らすようなアレのイメージであった。
 しかし、時代は変わっていたのです。今のドリップマシンは、ポットはいわゆる「魔法瓶」構造のステンレス製のものが普通で、淹れ終わると電源が切れ、ポットも温めていないのに魔法瓶構造のおかげでずっと温かさを保つ、ゆえに煮詰まることもない、という素敵な時代になっていたのでした。技術の神様ありがとう。

 で、いろいろ検討した結果、「魔法瓶といったら、TIGERに決まってんだろうが!」という自らの内なる声が聞こえたような気がするので、 タイガー魔法瓶株式会社謹製のマシンにした。



 残念ながら↑の画像やらリンクは、わたしが心から憎むamazonだが、amazonで買い物をしたくないわたしとしては、愛するYODOBASHI.comをすかさずチェック。どうやら1万円はしないし、在庫有り、らしいので、すぐさま、Y君を伴ってヨドバシAKIBAへ買いに行き、入手した。

 というわけで、マシンは手に入った。そうなると当然次に、豆はどうする? という本来なら最も重要な問題が浮上する。でも、別にそれほどこだわりはないので、ああ、そういやあの辺にコーヒー豆屋があったな、という薄らぼんやりした記憶を頼りに、ヨドバシAKIBAから歩いて10分かからないぐらいのところにある、「やなか珈琲神田店」へ向かい、おすすめのブレンドを購入。これは、後々知ることになるが、コーヒーは、「焼きたて」が一番美味い。「挽きたて」じゃなくて、「焼きたて」。つまり、「焙煎したばっかりの状態」である。そして、やなか珈琲店は、オーダー後に、店頭で焙煎してくれることを一つの売りにしているため(そのため、15分~20分ほど店頭でぼんやり待つ必要がある)、まさしく「焼きたて」の豆を、期せずして手に入れたのだった。

 さて、じゃあ会社に戻って、さっそく淹れてみるか、と会社まで歩こうかと思ったが、半端に距離はあるし急ぎたかったので地下鉄で会社最寄りまで向かった。

 途中、あ、水がねえな、とふと気が付くが、まあ、コンビニに寄って2Lペットボトル買ってくか……と折り合いをつける。そして会社について、早速淹れてみた。ううむ、美味い。いいじゃないの。こいつはいい買い物したかもな、と悦に入った。
 なお、この日は土曜で休日出勤していたので、Y君とわたしのふたりだけだった。そう、休日出勤してせっせと働いているときに、突如コーヒーが飲みたくなったのである。そして仕事はどうでもよくなって、いろいろな調査&買い物に励んだわけである。ちなみに、「うおーー! 美味いコーヒーが飲みたい!」と突如思い立って、買い物して戻って、最初の一杯を入れるまでに要した時間は、およそ2時間であることを付記しておく。
 フッ……何をやらせても完璧だぜ……。

 というわけで、美味いコーヒーを飲みながら、カップの置き場に、なんかカゴ的な、水切りトレイ的なアレも必要だな、とか、淹れ終わった豆を捨てる、小さいゴミ箱的なやつも要るな、とか、完全に仕事そっちのけでいろいろ検討を始めたわけだが、そういえば、水、毎回買ってくるのはだるいし、そもそもこのペットボトルを捨てるのがめんどいな……どうすっぺ? という問題に突き当たった。
 これはアレか、浄水器的なものを買えばいいのか? と考えたのは全く自然な流れであっただろう。そういや、わたしが秘書をやっているとき、毎朝最初にやることは、BRITAの浄水器に水入れて、きれいな水を作ってコーヒーを淹れる準備をすることだったな、という事を思い出し、浄水器について、いろいろ調べてみた。やっぱりBRITAかしらん? と思いつつ調べていると、全く予想外の、な、なんだってェーーーッ!? という、わたしとしては衝撃を受けた動画を発見した。



 げえーーーーっ! オ、オレンジジュースを透明にするだって!? 何を言ってるかわからねえかもしれねえが、見たことをありのままに(以下略)。 この動画の通り、なんとジュースさえも透明にする、恐ろしく腕の立つ浄水器を見つけた。その名も、「CLEANSUI」。三菱レイヨン株式会社謹製の、凄腕浄水器だ。
 
 この動画を見て、もう完全にわたしは「CLEANSUI」さんにぞっこんLOVE。30年来、原田知世さんを愛し続けるわたしとしては、つい「これ、恋だと思う」とつぶやかざるを得ないほど、「CLEANSUI」さんしか目に入らない。ほかにも、コーラを透明にするとか、紅茶を透明にするとか、動画を漁ってみると次々に「CLEANSUI」さんの勇姿が発見されるではないか。というわけで、結局、容量も多くて使いやすそうなこいつをヨドバシ錦糸町にて購入した。



 いや、買う前にちゃんと計算したのです。2Lペットの水がだいたい90円。どうやら1日では使い切らないけど2日は持たない。まあ、3日に2本ぐらいかな、と。つーことは……毎月20営業日として、ええと、20÷3×2=13.3本。それが90円ってことは、月に1,197円、と。
 で、CLEANSUI先生のカートリッジが、2個入りで3,000円弱。一つで3か月使えるってことは……3,000÷2÷3=ひと月500円じゃん!
 CLEANSUI先生の圧倒的大勝利! CLEANSUI先生あんたサイコーだよ!!

 ところで、この尊敬できる仕事ぶりから、もはや先生と呼ぶしかないCLEANSUI先生だが、この時、ちょうどその頃に見たばかりだった映画を思い出した。
 その映画は、かのRobert Redford主演『All is Lost』という作品だ。



 もはや老人の域に達した、恐ろしく渋くてかっこいいRedfordが、ヨットで旅をしていて、違法投棄(?)されたコンテナに座礁したり、超暴風雨に出会ってしまったり、とにかく過酷な目に遭うにもかかわらず、一人で黙々と試練を克服しようと頑張リ続ける男のサバイバルムービーだ。
 この映画に出てくる人物は、Redfordただ一人だけ。ちなみに、役には名前が設定されておらず、エンドクレジットでも、<Our Man・・・・・ROBERT REDFORD>としかクレジットされていなかった。「オレたちの男」、だぜ? かっこよすぎるわよ全く! だから、なんということか、この映画でレッドフォードがしゃべるシーンは、たった一回しかない(※正確には、ナレーションと無線に話しかけるシーンがちょっとだけある)。
 彼が放つ一言は、本当に重く、そのシーンではわたしも全く同じセリフを心で叫んだ。
 そのセリフは、とある状況で、うまく行きそうだったのにダメになって、思わず心の底から放たれる「FUCK!!!」という絶望あるいは怒りの一言だ。
 ちなみに、「ファーーーーーーックッッッ!!!」と読んでいただきたい。
 これ以外のセリフはなく、ただひたすら、生きるためにあらゆることを黙って行う。ものすごくかっこよく、そして哀しい漢ムービーである。
 で、なんでその映画を思い出したかというと、「ああ……RedfordもCLEANSUI先生を持って行っていれば……」と思ったからである。そう、単純なわたしは、海水すらもCLEANSUI先生なら真水に変換してくれるんじゃね? と思ったからだ。何よりも重要な水を得るために、Redfordの努力はすさまじく、ホント泣けてくる。あの時、CLEANSUI先生がいれば……と思うのは、映画オタクとして当然であろう。なので、さっそくCLEANSUI先生について調べてみたところ……やっぱりいかな先生でも、海水を真水に濾過することはできないそうです。泥水を飲めるようにするのは余裕らしいけど、海水はさすがにダメみたい。ちょっとテンション下がるわ。


 というわけで、1年以上、TIGER&CLEANSUI のコンビでコーヒーを淹れつづけていますが、間違いなくいい買い物をしたな、と思っています。
 豆もその後いろいろ研究し、個人的には(全然焼きたてじゃないけど)KALDYの「ツッカーノブルボン」という豆が結構気に入ったり、やっぱりやなか珈琲店の豆は美味いと思うし、神保町の豆香房も美味いな、とか、いろいろ発見があった。

 というわけで、結論。
 やっぱり、淹れたてのコーヒーの香りは、幸せの香りじゃのう……。 

↓ 是非、観ていただきたい。
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2014-09-02

 

 昨日は、平日の昼間だというのに映画を見てきた。
 見てきたのは、『Jurassic World』。もはや説明の必要も ない大作、スピルバーグ=AMBLIN=ユニバーサルが抱える強力IPですな。 


 もちろん、わたしは過去の3作品を劇場で見ているし、1作目の『Jurassic Park』は、マイケル・クライトンの原作小説も、1作目の映画公開前に読んでいる。
 1作目の映画が公開されたのが1993年。当時、わたしは大学院生で、記憶では、当時は大作に限って行われていた「先行オールナイト」で見たと思う(※ちなみに、先行オールナイトとは、公開の前週の土曜の夜、特別に先行上映されるもので、オールナイトと言っても初回は19時くらいスタートが普通だったが、シネコン時代となった今では、ほぼ絶滅してしまった映画興行文化のことを指す)。
 1作目を劇場で見たときは、非常に興奮したね。確か、映画の中で一番最初に出てくる恐竜は、巨大な首長竜のブロントサウルス(?)の群れだったと思うんだが、その恐竜を見て、主人公たちが、Oh, My God……! とあっけにとられるシーンでは、わたしも一緒に、HOLY SHIT! と心の中で叫んだことを覚えてます。
 
 で。
 今回の『Jurassic World』です。
 ストーリーは、もう見る前からわかりきってる。どうせまた、恐竜が逃げて大変なことになるんでしょ、と。
 なので、わたしにとっての今回の見どころは、最新CG技術で恐竜を描くとどうなるのか、という1点のみ。
 そもそも、わたしが思うCGのすごさというのは、その質感にある。つまり、本物にしか見えない、という見てる側の主観に訴えるビジュアルイメージを構築できる点にあると思っている。たとえば、もう6年前の作品になる『Avater』なんて、舞台となる衛星「パンドラ」の植生とか生物は、もう本物そのものにしか見えないもんな。最近では、と言ってももう数年前の作品だが、『GRAVITY』も、もはや本物の宇宙がスクリーンに描かれていた。
 日本のCG技術は、そこが決定的に欠けている。質感が極めて乏しく、偽物っぽくしか見えない。日本最高峰のCG屋である(とわたしが思う)白組でも、まだまだだ。巨大感や素材感が、嘘くさい。おそらく、CGのそういう質感やサイズ感を出すには、技術なんかじゃなく、地道な細かい作業の積み重ねしかなく、ハリウッドではそれを巨大な製作費をベースに、たぶん人海戦術で、とにかく作業者を増やすことで対応しているんだと思うが、まだ日本ではそのような予算規模で映画を撮れる環境にないのだろうと思う。残念極まりないが、せめて韓国や中国なんぞに負けないでほしい。まったく余談であるが、東野圭吾先生の初期の傑作『天空の蜂』がようやく映画化されるようで、その予告を今回初めて見たが、ありゃマズイね。主役であるハイテクヘリコプターのCGが……相当ひどい。原作はまずまず面白いだけに、予告だけのパイロット映像であることを願うばかりだ。
 今、日本だけでなく世界でもそうだと思うが、CGに関してはゲーム業界に才能と人手が集まってるんだと思う。日本が誇るかのFROM SOFTWARE はおそらく日本最強のゲーム屋だが、日本でもこんな素晴らしいCGができることは、忘れちゃいけない。


 ちなみに、わたしが見た中で、こいつはすげえ! と興奮した日本映画のCGは、一つはもう10年以上前の2002年に公開された『リターナー』と、もうひとつは、『永遠の0』にちょっとだけ出てくる、航空母艦「赤城」のCG、だけのような気がする。奇しくも、両作品とも『ALWAYS 三丁目の夕日』でおなじみの山崎貴監督作品だ。なお、だからと言って山崎作品のほかの作品はどうなのよと言われても、正直まったくどうでもいい。
 まず、『リターナー』。脚本も非常によく練ってあって、映像もスタイリッシュで、わたしとしては非常に評価の高い映画なのだが、いかんせん、とある役者の演技がクソすぎて若干残念。いや、主役の金城武君も、鈴木杏ちゃん(当時15歳!)も非常に高いレベルの演技で大満足なのだが、悪役のあいつがちょっとな……。いずれにせよ、CGのレベルも金城君のカッコ良さも、鈴木杏ちゃんのかわいさも、見事にはまった傑作だと思っている。
 一方の『永遠の0』はあれだけ原作小説が売れて、役者も非常にいい芝居をした映画なのだから、そりゃヒットするわな、と思うし、十分泣ける作品だが、肝心の零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦の「空を飛んでいるシーン」のCGがあまりにしょぼいため、一気にテンションが下がる。あれ、CGだよな? まさかミニチュアか? どうでもいいが原作者のおっさんのここ最近の炎上ぶりにもテンションはダダ下がりだ。あーあ。
 だがしかし! この映画で最大の見るべき点とわたしが感じているのは、主人公が一時乗船することになる、『艦これ』で一部の方には大変おなじみの<航空母艦・赤城>をCGで再現しているシーンだ。あのCGは見事だった。巨大感も十分で、きわめてクオリティが高かったと思う。なお、巨大感でいうと、同じ山崎監督の珍作として名高い『SPACE BATTLE SHIP YAMATO』における主役の宇宙戦艦ヤマト自体のCGは、確かに「素材感」という意味での質感は高かったが、ヤマトにおいて極めて重要な「巨大感」がまったく伝わらず、残念ながら超ハイクオリティーのガレージキットにしか見えないという悲しい結果に終わっていた。あれは、おそらくはヤマトの全身をスクリーンに入れてしまった演出上のミスだと思う。巨大感は非常に重要なのに、あれじゃあダメ。0点。
 思い出してほしい。『STARWARS』の1作目(=当然、A New Hopeを指す) の冒頭を。宇宙を征く宇宙船、その数秒後にスクリーンに入りきれない巨大な何かがズズズと現れるあの衝撃を。CGなしのミニチュアで、構図を工夫しただけでああいうことができる。それが演出ってもんだろう。

 で。『Jurassic World』の話なのに、なんでこんな関係ないことを話したか。
 わたしとしては関係大有りで、今回、わたしが感じた『Jurassic World』最大の問題は、その「巨大感」にある。結論から言うと、どういうわけかそれを今回、全く感じることができなかったのが、実に残念に思った。なので、せっかくの今回の悪役恐竜たる「インドミナス・レックス」に対して、圧倒的なヤバさ、怖さ、存在感、そういった、1作目のティラノサウルスに感じたあの「恐怖感」を感じることができなかったのだ。
 その結果、ぜんぜん乗れない。見ているこちらすらも体が硬直して動けなくなるような、あの圧倒的な緊張感が、1作目のティラノサウルスにはあったはずなのに……今回のインドミナス・レックスは、ちょっと細身だし、大きく感じられないし、なんか、はっきり言って弱そうなんだよね。
 
 こうなってしまった原因は、おそらく2つある。

 1)脚本の問題
 今回、おそらく製作者たちは、こんな会話をしてたと想像する。
 「ねー、今度の映画はどんな恐竜を出す?」
 「やっぱティラノサウルスっしょ。」
 「えーでももうやりつくしちゃったじゃん。客も飽きてんじゃね?」
 「かもなーーーどうすっかーーー」
 「じゃ、全く新種の、おっかないの創っちゃいましょうよ。DNAをつなぎ合わせた
  ハイブリットとか言えばいいんじゃあないっすかね。おれの愛車はプリウスだし」
 「それだ!」
 「天才現る!」
 「それで行こう!」
 みたいな感じ。これはこれで、全く理解できるし、わたしでも同じように考えたことだろう。だけど、ストーリー上、とある重要な、かつ1作目でもおなじみのあの恐竜のDNAを混ぜる必要が出てきてしまって、その恐竜の影響で、細身&やや小柄になってしまったのではなかろうか。もっとここはあり得ない方向性でもよかったのではないかと思うけど、まじめに作ったらああなっちゃったんだろうな……。この、ハイブリット悪役恐竜ことインドミナス・レックス以外は、やはり最新ハリウッドCGを駆使した素晴らしい仕上がりで、もうほんとに生きているとしか思えない質感高いCGだったのに、きわめて残念でした。

 2)演出上の問題
 これは、別の言い方でいうと、「3D」という方針を取ったことによる弊害ではないかとも思う。飛び出して見えるためには、スクリーン内に対象物の全体を入れた方が飛び出し感が高まる。例えばスクリーンで上半身だけしか映っていない状態になると、どうしてもそこで立体感が消滅してしまうんだよな……。
 それと、どうにも気になったのが、今回は3D効果によって、恐竜だけでなく、建物やヘリなども、やけに「ミニチュアライズ」されたように見えてしまったのも残念だ。全編通じて、やけにおもちゃっぽい。ひょっとしたら、3D版だけの弊害だったかもしれないとも思う。
 わたしが最初に違和感を感じたのは、主人公の兄弟がホテルに入って、部屋のカーテンを開けて、パークの全景から真ん中のピラミッド状の建物が映されるシーンだ。すげえ小さいというか、人までもがミニチュアっぽく見える。いわゆるミニチュアライズ処理された風景そっくりで、なんだこれ!? と、おそらくは誰でも感じたのではなかろうか。結果、恐竜も巨大感が全然伝わってこなかった。これは、わたしが見たのは、TOHOシネマズ日本橋の5番スクリーンだったのだが、ひょっとしたら、劇場のスクリーンサイズがそれほど大きいところでなかったことも、影響しているかもしれない。TOHO自慢のTCXスクリーンで、2D版を見ていたら、全然別物に見えたのかもかもしれない。実に残念だ。

 あともう一つ、CGの話ではなく、脚本上どうしてもモノ申したい点がある。
 当然、見る前からの想像通り、主人公と相いれない悪いやつが出てくるわけですよ。
 で、当然そいつは、ラスト近くで、恐竜にガブリとやられるわけですよ。
 そこまでは全く想像の範囲内で、主人公と対立していたクソ野郎がガブッ! とやられれば、観ているわたしとしても「ざまあw」とすっきりするわけですよ。
 しかし! 今回、実際のところ一番の悪党である中国人(?)だか良くわからないDr.ウーというDNA工学の専門家が出てくるわけですが、そいつは結局何もお咎めなし、さっさとバックレてしまうんだな。明確に描かれてないけど。
 これはいただけない。なんであいつも食われなかったんだ……まさかアレか、チャイナマネーか? と勘繰りたくなりました。この謎の中国人(?)博士、Dr.ウーは、とんでもない無責任野郎で、
 パークCEO「なんでこんなDNAを混ぜたんだ!」
 Dr.ウー 「アッハイ、あなたがおっかないのを作れって言ったんで、その通りにしただけっす」
 みたいな感じで、自分の行動がもたらす事態に対して責任を感じることがまったくなく、すべてを人のせいにする、まるで社畜サラリーマンのお手本のような受け答えをしてくれる。そういう奴、確かにいっぱいいるわな……そんな奴、何人も知ってるよ……そういう奴こそ、本人はまったく自覚がないんだろうけど、まさにそれ故に本物の邪悪だと思う。マジでお前のような奴は死ね! 真っ先に! と思いました。

 いろいろ書きましたが、基本的にはまずまず楽しめました。
 主役のChirs Pratt も、『her』の時のちょいデブ(リンク先の上から5枚目)とは全く別人のイケメンとして活躍中ですが、大変カッコ良いと思います。
 あと、かのジョン・ウィリアムス作曲のあのテーマ曲をきっちり使ってくれたことも好印象。音楽の重要性は、いずれ語るつもりです。
 
 というわけで、結論。
 もしご興味を持った方は、なるべく大きい劇場の、2D版の方が、いいんじゃないかなーと思います。


 ↓オレ的傑作、「リターナー」。特に当時15歳の鈴木杏ちゃんが超絶かわいい。
リターナー ― デラックス・エディション [DVD]
金城武
アミューズ・ビデオ
2003-03-07






 

 おそらくこの先も、何度も書くとは思うが、最初に言っておく。
 わたしが一番好きな小説家は、この地球上ではダントツ1位でStephen King だ。

 よく、映画が好き、だとか、だれだれ先生のファン、とかいう話になると、たいてい「どの作品が一番好き?」 と聞かれるものだが、そんなこと聞かれても困る。だって、全部好きなんだもの。
 もちろん、大ファンの私でも、ちょっと……こいつはイマイチかのう……と思わんでもない作品もそりゃあるが、とにかく面白い作品ばかりで、1番、は何だろうな……やっぱり『Dark Tower』シリーズになるのかな……でも、最近の作品では『Under the Dome』も『11/22/63』も、もちろんのこと、すっごい面白かった。

 ともあれ。
 Stephen Kingが偉大なる作家であることは、大方の日本の小説家の先生方も認めるところではないかと思う。キングファンを公言する作家は、わたしが知る限りでもけっこういるし、今回わたしが取り上げる『Dr.Sleep』も、読売新聞紙上で宮部みゆき先生がレビューを書いていたし、有栖川有栖先生も日経で書評を書いていたのを読んだ。両先生とも、基本的に好意的な書評だったと思う。
 なお、わたしがいつもチェックしている、わたしの数万倍のスーパーキングファンの方が運営してる『スティーヴン・キング研究序説』というサイトがあって、そこをチェックしておけば、新刊情報を逃すことはないので非常に頼りにしてます。勝手にリンクしていいのかわからないので各自Google検索でもしてくれ。

 Stephen Kingのすごいというか恐ろしいところは、毎回ページ数がかなり多い作品なのに、年に2冊近いペースで作品を発表し続けていることだ。これは、日本の出版界の人間、特に文芸系の人間ならば、そのすごさが実感できることだと思う。
 もちろん、Stephen Kingの執筆スタイルの詳細を知らないので、こういう適当なことが言えるが、ひょっとしたら、日本の週刊連載を持つ漫画家のように、ものすごいブレーンというかチームというかスタッフがごっそりいて、分業がなされているからこそ、できるのかもしれないし、ひょっとしたらKing自身が書いてるのはプロットだけとか、そんな裏事情があるのかもしれない。知らないけど。それでも、どんな執筆体制を構築していようとも、あのクオリティの作品を次々と発表するその「作家魂」は、世界一レベルだとわたしは思う。
 この背景には、Kingが1999年6月19日に交通事故(普通に散歩してたら車にはねられた)に遭い、瀕死の重傷を負って、本当に死にそうになり、生還したことが影響している、と本人が『小説作法』というエッセイの中で言っている。
 超適当に凝縮して言うと、要するに、「この世界って、マジでいつ死ぬかホントわかんねえんだな。だから、とにかく毎日書きまくって、心残りのないようにして毎日を過ごさないと、ホントにダメなんだな。(なので、20数年間放っておいた『ダーク・タワー』シリーズを最後まで書き抜いて完結させよう)」って思ったらしいです。
 ↓ この本。
書くことについて (小学館文庫)
スティーヴン キング
小学館
2013-07-05


 あれっ!? わたしが持ってるのは『小説作法』っていうタイトルの四六判の単行本なんだけど、いつの間にか小学館文庫から出てたのか。しかもタイトル変わってるし。原題は『On Writing』だから、まあ、このタイトルでいいか。小学館文庫か……なかなか売ってねえんだよな……。Joe Hill(※Kingの息子で恐ろしく才能のある作家。彼の作品もKing並に相当面白い)の作品探すのに、いつも苦労するよ……。

 というわけで、とにかく前振りが長くなったけど。『Dr.Sleep』。
 今回、King は、40年近い作家生活の中で、初めて自作の<続編>というものを書いてくれた(注:『Dark Tower』シリーズは長~い1本の作品としてカウントするので、ノーカン)。今回の『Dr.Sleep』は、かの『The Shining』の30年後の物語。あの惨劇を生き延びた、「ダニー」少年(当時5歳)が、なんとアル中のおっさんとなって登場する! というあらすじをアメリカのサイトで知った時、わたしの感激はいかほどだったことか! もう、それだけで面白いにきまってるじゃねーか! と当時の部下に、不条理にキレたものだ。アメリカでの発売が2013年9月。英語でもいいから読むか? と悩んで放置して約2年。やっと日本語版が出てくれた。ありがとう、白石朗先生。あなたの翻訳は素晴らしいです! 発売日当日は興奮しながら丸善御茶ノ水に向かったわたしであった。
 
 物語は、『The Shining』の直後から始まる。先に言っておくが、キューブリックによる映画の『シャイニング』は、別に嫌いじゃないけど、明らかに別物なのでどうでもいいとして、原作の『The Shining』は読んでおいた方がいい。宮部みゆき先生のレビューでは、別に読まなくていい、と書いてあったけど、やっぱり、読んでおいた方がいいと思う。
 映画しか見ていない人の方が多いだろうから、ひとつだけ、重要なキーワードを説明しておくと、そもそもタイトルの『The Shining』とは、日本語版の小説では「かがやき」と訳されている。そう、『The Shining』という小説は、「かがやき(=The Shining)」と呼ばれる特殊な能力を持つ少年、ダニーの物語なのだ。
 なお、「かがやき」能力は、予知だったり、テレパシーだったり、若干の念動力だったり、ちょっとした超能力のようなものと思っていい。やけにカンがいいだけ、とか、「かがやき」能力の程度はどうも個人差があるようで、一定ではないのもポイントの一つ。
 映画しか見てない人は、えっ!? そうだっけ!? と思うかもしれない。けど、そうなのです。
 「かがやき」能力を持つがゆえに、かのオーバールックホテルに棲みつく幽霊どもに悩まされ、しまいには父親が幽霊に憑依されてひどい目に合う、というのが、前作『The Shining』のあらすじだ。
 
 そして今回のお話は、中年になったダニー元少年(本書では「ダン」と呼ばれている)と、ダニーがアル中から立ち直るきっかけとなった出来事が起きたころに生まれた少女と、そして、今回新たに登場する謎の集団”Ture Knots”と呼ばれるSuper Naturalな、人間の精気(?)を吸う事で生きながらえる不老不死の存在の3つのストーリーから成っている。
 そしてその3つの流れが合流したとき、物語は一気にクライマックスへ加速する――! みたいな話だ。

 どうやら、Web検索なんぞをしてみると、今回の『Dr.Sleep』は筋金入りのキングファンからすると「敵が弱い」とか「バトルがあっさり終わっちゃう」とか、ご不満な方が多いようだ。わたしも筋金入りのつもりだが、わたしとしてはまったくそんな風には感じず、非常に楽しめたのだが……。確かに、たいていのKing作品では、敵が恐ろしく強大だったり、狡猾だったり、とにかく「邪悪さ」がハンパなく、たいていの主人公は、もう本当にひどい目に合う。文字通り、体も精神もズタボロにされる場合が多い。だからこそ、この主人公マジで大丈夫か? とハラハラドキドキで読めるわけだが、一方で、それ故に最終的に勝利するときは、あれっ!? とあっさり勝って逆転してしまうこともある。
 
 確かに、今回の敵である”True Knots”は、超邪悪だけど、歴代のKing作品の敵の中ではそれほど強くはない。今回、白石朗先生は、かれらを「真結族」と訳してくれた。knot=結び目のことね。ネクタイの結び方でウィンザーノットとかあるでしょ? あのknot ね。さすがは白石先生、非常にいい訳だと思う。読み方的にも「血族」ともかけているんだろうと思う(しんけつぞく・真の血族、みたいな)。

 それはともかく、彼ら「真結族」は、良くわからないが少なくとも1000年ぐらい前には存在していて、人の精気を吸って生きているわけだけど、面白いのが、どうやら「かがやき」能力を持っている人間の精気が、とにかく濃密で、美味らしいんだな。これってアレか、JOJOでいうところの柱の一族じゃんか! と、当然私としては盛り上がるわけですよ。(注:柱の一族は人間を吸収してエネルギーとするが、普通の人間よりも、高カロリーな、石仮面をかぶって吸血鬼化した者の方が美味いというあの設定ね)
 で、「かがやき」能力をもつダニーと、そしてダニー以上の非常に強力な「かがやき」能力を持って生まれたアブラという少女が、「真結族」にロックオンされるわけだ。しかも、人間の精気は、とてつもない苦痛を受けているときが一番美味いらしく、ものすごい拷問をするんだな。まあ、極めて邪悪ですよ、本当に。読者としては、やっべえ、アブラ超ピンチ! うしろうしろ! 逃げて―――!! とか、もうドキドキなわけ。

 ダニーとアブラの交流も読みごたえがあるし、戦い方もちょっと変わっていて非常に面白い。また、ダニーがDr.Sleep と呼ばれるようになるいきさつも、非常にいい。
 そして、最後の戦いでは、なんとあのオーバールックホテルで死んだダニーの父、ジャック・トランス(※映画のジャック・ニコルソン)も深く関係してきて、最後はちょっと泣けたね。

 あと、かなり冒頭の方で、『The Shining』の惨劇直後の少年ダニーが、今後の生活で幽霊に悩まされないために、「かがやき」能力の先輩である老人(※前作『The Shining』で最終的にダニーと母を助けてくれたコックのおじいちゃん。映画にも出てくる)から習う、とある方法があるのだが、そのやり方が、小説はすげえ面白いけど映画版は超B級映画の代名詞となってしまった『Dreamcatcher』に出てくる「頭の中の書庫」と似ている点も、わたしとしては面白いと思った。
 曰く、頭の中に金庫を思い浮かべて、そこに幽霊どもを閉じ込めて、厳重に鍵をかけるのじゃ、そして頭の中の倉庫に放り込んでおけばいい、みたいな感じ。
 この「頭の中の書庫」のモチーフは、ほかのKing作品でも出てくるし、最近では映画『INTERSTELLER』で天才Christopher Nolanが描いた「多次元世界」のイメージになんとなく似てるような気もする。ああ、そういえば、同じくNolanの『INCEPTION』ではまったく同じ表現がされてたね。頭の中に入って金庫に保管されている情報(=記憶)を盗む、冒頭の方のシーンはまさにこれだ。
 

 というわけで、結論。
 『Dr.Sleep』は超面白かったです。ぜひ、読んでいただきたい。
 もちろん、『The Shining』を先に読んでから、ね。

↓わたしとしては、やはりこいつを読んでいることが必要条件だと思う。映画は、別にどうでもいいや。
シャイニング〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン キング
文藝春秋
2008-08-05

シャイニング〈下〉 (文春文庫)
スティーヴン キング
文藝春秋
2008-08-05

 かの『読書メーター』が、とあるクソ会社に買収されたため、もはやアレを使うことは生涯あるまい……と思ったので、読書や映画の記憶を留めておくために、これを始めることにした。
 特に公開は意識していないが、まあ、検討の結果ブログ形式が手軽であろうと判断した次第。Twitterでは到底書ききれないし。
 で、どこがいいかな……と検討したところ、理由はいろいろあるが、結論としてはここにした。
 Livedoorというと、かのトンチキ小僧のインチキ経営により有名になったところだが、今は全く関係ないし、こだわる必要もなかろうと思われる。

 というわけで、まずは腕慣らしとして小説の感想から書いていくとしようか。
 最初のお題は、わたしが世界で一番好きな作家の新作(少なくとも日本語訳としては)である、Stephen Kingの『Dr.Sleep』から行ってみよう。

ドクター・スリープ 上
スティーヴン キング
文藝春秋
2015-06-11





ドクター・スリープ 下
スティーヴン キング
文藝春秋
2015-06-11

 
 結論から言うと、わたしとしては非常に楽しめた作品であった。 

注:Dr.Sleepは、アメリカ発売が2013年で、すでにKingはその後3作品出版している。
   ので、別に最新作ではないけど、日本語訳版としては最新作という意味。
    Dr.Sleepの次に書いた、Mr.Mercedes(King初の探偵小説!)が超読みたい!! 
 

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